第64話

 アラームをかけずにベッドに入った栄が翌朝目を覚ましたとき、すでに日は高く昇っていた。

 飛行機では眠れない性質なので長時間フライトを起きたままで凌ぎ、さすがに疲れたので横になればすぐに眠れるだろうと思っていたところに「あの電話」。完全に目が冴えた。つらつらと愚にもつかない考えごとをして、ときおり枕元の時計を見ることの繰り返し。午前二時あたりまでははっきりと記憶に残ってるから、早くとも寝入ったのはその後だろう。

 朝一番に例の住所に押しかけてやろうという威勢の良い考えも、疲労のせいでややトーンダウンしていた。とはいえここまで来て何もせずにロンドンに帰るという選択肢はないので、栄はシャワーを浴びて着替えるとホテルの部屋を出た。

 着陸少し前に食べた機内食が胃に残っていたので昨晩は夕食を抜いた。遅い時間になって空腹を感じたが、ホテルの地下にあるコンビニエンスストアに行くことすら億劫だったのでミニバーのナッツとビールで誤魔化した。当然腹は減っているので、朝食を食べられる店を探しながら歩いているうちに新宿駅西口方面の地下通路が見えてくる。

 牛丼屋ののぼりに書かれた「朝定食」の文字に心惹かれながらも、何度か暇つぶしに使ったことのあるチェーン店のカフェを目指す。その建物の地下に大型書店が入っていたことをふと思い出したからだ。

 サンドウィッチとコーヒーで朝食を済ませると栄は書店に向かい、案内図で確かめてから文芸書のエリアに向かった。それでも目当てのもののありかはわからず、羽多野と尚人が言っていた書名を検索機で探した。

 高尚な文学か何かに違いないと思っていた『タイタンの妖女』はSF小説のレーベルから出ている文庫本で、千円もしない。題字からも表紙のイラストからも、なんだか間の抜けたイメージを受けた。誰に見られているわけでもないのに自分が柄にもない本を手にしていることが恥ずかしくて、会計の際は迷わずカバーをつけてもらった。

 腹ごしらえもして、暇をつぶすための本も持って――そのまま新宿駅から丸ノ内線に乗って四ツ谷で降りる。マップアプリで方向を確認しながら駅からの道を歩く間も、もしかしたら羽多野と出くわすのではないかという低い確率に心臓が高鳴るが、期待と恐れどちらのせいなのかは自分でもよくわからなかった。

 ストリートビューで見たのと同じマンションの前に立つ頃には、スマートフォンを触り続けていた栄の指先はかじかんでいた。築十年から二十年、単身向けの部屋であれば家賃は十五万前後といったところかと、まずは外から値踏みする。

 手にしたメモとマンションの物件名を念のため再確認してから足を踏み入れたエントランスは無人だったが、おそらく防犯カメラはついているだろう。栄は不審な動きにならないよう注意しながら左手側にあるポストに目を走らせた。そもそも期待していなかったが、案の定どのポストにも居住者の名前は表示されていない。結局、羽多野がここに住んでいるかどうかを確かめるには張り込むしかないのだ。深いため息は冷たい空気を白く染めた。

 長居して不審者と思われても厄介なので一旦エントランスの外に出るが、人の出入りを見張りながら時間をつぶせるような都合のいい場所があるわけもない。仕方ないので数メートル離れ、自販機の横に立って待ち合わせでもしているようなふりをした。

 ラブホテルの前で尚人が出てくるのを見張っているときほど惨めな気分ではないと思う。でもあのときは夜だったから、同じ場所にずっと立っていてもそれほど人目にはつかなかった。一方、今は真昼。平日の日中なので人通りが少ないのは救いだが、それはつまり羽多野と出くわす可能性も低いということだ。

 すでに羽多野がこのマンションから退去しているのならば、いくら待っても無駄だ。ここに住んでいるにしても、旅行中とか、考えにくいがすでに再就職して出張中とか、長期にわたって留守にしている可能性はある。普通に暮らしていたって一日のうち自宅を出入りする回数などそう多くはないのだから、いずれにせよ長期戦は覚悟しなければならない。

 最初のうちはじっとエントランスを見張って、三分毎に腕時計を確かめた。だが、あまりに動きがないし外気は冷たい。同じ場所にじっと立っているうちに体は芯まで冷え切って、注意力も散漫になってきたころに管理会社の制服を来た老人がゴミ袋を手に出てきた。

 考えるより早く、栄は男に駆け寄っていた。

「あのっ」

「何か……?」

 善良そうな老人は、やや驚いた様子で栄に視線を向ける。

「あの、このマンションの405室に……羽多野貴明さんという方は住んでいらっしゃるでしょうか」

 勢いに任せて一気に口に出すまでは良かったが、老人の表情の変化に栄は自分の軽率な行動を後悔する。男は栄の頭のてっぺんから足のつま先までひとしきり眺めまわしてから、まずは「あんた、探偵さんか何か?」と尋ねた。

「……いえ」

 栄は小さな声で否定する。平日の昼間にマンションの入り口を見張って住人について聞き回るなど、どう考えてもまともな人間でもまっとうな目的でもない。まさか不倫調査の探偵だとでも思われているのかと恥ずかしさにうつむく栄に、男はさらに追い討ちをかけた。

「だったら借金取りとか……まさか、ストーカーとかいうやつじゃないだろうね」

「違います!」

 疑いを隠そうともしないじっとりした視線を向けられて、思わず大きな声が出た。探偵も借金取りもひどいが、ストーカー扱いはあんまりだ。だが――あえて電話番号を不通にしたであろう男を捕まえに約一万キロメートルの距離を飛んできたという事実だけを見れば、そんなふうに思われたって仕方ないのかもしれない。

「前に友人がここに住んでいたので、ちょうど近くを通りかかったついでにまだいるのかなって気になってお尋ねしただけです。私は決して怪しい者では……」

「本当に? 最近変な人が多いんだよ。この間もそこの一本先の通りで痴漢が出て。ほら、このあたり大学もあるから女の子を狙って変な奴がうろつくんだよね」

 ストーカーの次は痴漢扱い。あまりにひどい。そもそも栄が挙げたのが男の名前であるにも関わらず女子大生狙いと疑われるなんて。だがいくら憤ったところで老人は既に栄を怪しい人物と決めつけ、このままでは警察に通報しかねない勢いだ。

 さすがに警察沙汰の面倒は避けたい。今日のところは一度引き上げて――ちょうどそう思った瞬間だった。

「……谷口くん?」

 背後から呼ばれる。

 老人とのやり取りに懸命で近づいてくる人間の気配に気づきもしなかった。ゆっくりと振り向くとそこには羽多野がいた――いや羽多野であることは間違いないのだが、栄の知る姿とはなんだかずいぶん雰囲気が異なっている。

「あれ、この人あなたの知り合いですか?」

 羽多野と顔見知りらしい老人は驚いたように栄を指さしてそう言う。羽多野が微かに首を縦に振ったのを確認すると、栄は憮然として老人に訴えた。

「ほら! これで借金取りでもストーカーでもないってわかったでしょう」

「ストーカー?」と、羽多野。

「いや、お知り合いならいいんですけどね。なんか急にここに住んでる人のこと聞いてくるものだから、怪しい人じゃないかって心配しちゃいましたよ」

 三者三様の噛み合わない発言に頭がくらくらしてくるが、とりあえず栄への疑いは晴れたようで、老人はゴミ袋を持ったままマンションの裏側に向かって歩き去った。

 残されたのはまだ理不尽な気持ちがぬぐえないままの栄と、羽多野――いや、多分羽多野だろうと思われるくたびれた男だった。

 ぱさついた髪はセットされていないどころか散髪すらさぼっている様子、明らかに伸びすぎている。げっそりとした顔には無精ひげが伸び、全体的に少し痩せたように見える。上着こそ一応ブランドもののダウンジャケットだがその下はどう見ても何日も着たきりのジャージ、足元はかかとを踏み潰したスニーカー。おまけに手にぶら下げたコンビニエンスストアのビニール袋からはビールの缶が透けて見えている。

 ――いや、不審人物を疑うなら俺じゃなくてこいつだろう。

 思わずさっきの老人にそう訴えたくなるほど、羽多野の様子は酷かった。本来ならば思ったより早くに羽多野と出会うことができて喜ぶべきところなのに、とてもそんな気分にはなれない。

 そして、この再会に喜べないのはどうやら羽多野も同じなのだろう。

「どうしたの? 谷口くん、帰省の予定はないって言ってたのに」

 あきらかに気まずそうな表情で視線は合わせず、それでも口先だけは平静を装う羽多野に冷たい視線を投げて、栄は言う。

「あなたの居場所を突き止めるのに、ずいぶんあちこちに頭を下げて回りましたよ」

「へえ、そうなの」

 まるで他人事のような返事が癪に障る。栄は顔をしかめて羽多野ににじりよる。

「知ってますよね? 俺が仕事以外で人に頭下げることがどれだけ嫌いか」

「仕事だろ」

 この期に及んで揚げ足をとる男に、栄はがっくりと肩を落とした。

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