第65話

 こともあろうか羽多野はそのままにらみをきかせる栄の前をそしらぬ顔で通り過ぎてマンションに入っていく。あわてて後を追うと、オートロックを開けようと伸ばした手を止めた羽多野は目も合わせないまま拒絶の言葉だけを吐く。

「悪いけど、人を上げられる状態じゃないから」

 けんかをする気で来たわけではないのに結局こうなってしまうのは、今回に限ってはこちらのせいではないと思う。完全にこの場で自分を追い返すつもりでいる男に栄は本気で憤った。

「は? ふざけてるんですか?」

 ゴミ出しを終えたのか、再びエントランス側に戻ってきた管理の老人が訝しげにこちらを見ている。気まずさゆえ自然と声のトーンは下がる。

「自分は他人の家に無理やり上がり込んで長々と居座ったくせに、何言ってるんですか? 世の中なめるのもいい加減にしてください」

 にじり寄る栄に珍しく羽多野が後ずさりし、わざとらしく外を気にして見せる。

「……谷口くんは騒ぎは嫌いだろう? 揉めごとはまずいと思うけど」

 そっちがわけのわからない言い訳をするから話がややこしくなっているだけなのに、何が「騒ぎ」だ。それに――根拠はないが、今ここで羽多野を逃せば二度と捕まえられない気がした。

 羽多野が栄の来訪を歓迎していないのは確かだ。栄の日本滞在に期限があるのは明らかで、その気になれば部屋に引きこもるとか、どこかに避難するとか、いくらだってやり過ごす方法はある。だから栄には今しかない。

 覚悟を決めて更に一歩踏み出すと栄が羽多野を壁際に追い詰めるという前代未聞の体勢、さらに顔を近づけると微かにアルコールの匂いがした。昼間から飲んでいたのか、それとも二日酔いなのだろうか。こんな状況でまだビールを買いに行こうという神経は理解できない。

「言っておきますけど、俺がここに来るまでの片道航空券は十七万円で、目下のホテル代もかかっています。急に休暇の予定を振り替えたから周囲にも迷惑を掛けて、しかも――」

 そこまでまくしたてたところで、背後で自動ドアの開く音がした。幼稚園くらいの子どもの手を引く若い女性が言い合いをするいい歳をした男たちを見て明らかに動揺している。進むか引き返すか迷っている親子を前にふたりがあわてて横に避けると、そそくさとオートロックを開錠してマンション内部へ入っていった。

「……わかった、とりあえず部屋に」

 ため息とともに譲歩したのは珍しく羽多野だった。栄にとってここはただ通りすがるだけの場所だが、羽多野にとっては居住するマンションなのだから、悪評のデメリットはより大きい。「騒ぎは嫌いだろう」などとプレッシャーをかけておきながら、実は騒ぎを気にしていたのは自分の方なのだろう。

 エレベーターで四階に上がり、廊下の一番奥の部屋。鍵を差し込みながら羽多野は「後悔するなよ」と苦々しそうにつぶやいた。そして――ドアが開いて中に入った瞬間、栄は羽多野の言葉の意味を理解した。

 室内の空気は澱んでいた。換気システムの小さな音は聞こえるが、長らく窓を開けての換気はしていないのだろう。手を付けた形跡のない新聞が大量に放置されているせいで玄関の床はほとんど見えない。

 作り付けの靴箱を開けて羽多野は隅の方から客用スリッパらしきものを取り出す。それがほぼ新品のように見えるのは、栄にとって不幸中の幸いだった。

 玄関から一番近い場所にある開きっぱなしの引き戸は多分、バスルーム。なぜわかるのかといえば洗濯していないと思われるバスタオルが廊下にはみ出すように落ちているからだ。その先のドアがきっと寝室で、正面がリビングだろうか。もはやマンションの外観を見て値踏みしたことなどどうだっていい。家賃が十万だろうが二十万だろうがここは最低最悪の汚部屋だ。

 靴を脱いでスリッパに足を入れたものの、そのまま一歩も動けずにいる――なんなら呼吸すら最低限に留めている栄をちらりと振り返って羽多野はため息を吐く。

「だから言っただろう。帰るなら今のうちだからな」

 だが、そんなふうに言われれば逆にむきになるのが栄だ。「帰りませんよ」と言い切って廊下を数歩進むと、栄の足の動きに合わせてフローリングをふわりと埃が舞った。

 ただ出入りするだけの玄関でその有様なのだから、リビングの状態は言うまでもなくより酷かった。

 まず、薄暗い。昼間だというのにカーテンは完全に閉まっている。枕と厚手のブランケットが乱雑に置いてあるソファは「巣」という表現が一番しっくりくる。センターテーブルの上にはビールの空き缶がずらりと並んでいる。カウンタータイプのキッチンもコンビニ袋と空き缶に埋め尽くされて、部屋には古くなったビールの発酵臭が立ち込めていた。

 心底呆れた。羽多野がいなくなったあと仕事の多忙もあって栄の部屋もそれなりに荒れたが、これと比べれば可愛いものだ。

 だが、それだけではない。センターテーブルの端、おそらく羽多野の日中の居場所かつ夜の寝床であるソファから手が届く位置に、白い薬袋と錠剤を取り出した後の空になったシートが無造作に置いてあるのを栄は見逃さなかった。

 荒れ果てた部屋に客を座らせるような場所はない。そして羽多野はソファを片付ける努力すらせずに言った。

「出て言ってくれって泣きながら訴えてたのに、どういう風の吹き回しだ? 俺は言われたとおりにしたんだから、てっきり君は満足してると思ってたけど」

 思い出したくもない恥ずかしい姿に言及され頬が熱くなるが、これも相手の作戦なのだと自分に言い聞かせる。羽多野はわざと栄のプライドを傷つけるようなことを口にしている。傷つけて、怒らせて、このまま帰らせようというのが男の狙いだ。その手に乗ったが最後、思う壺。だから栄は必死に感情を抑えた。

「気が変わったんです。あれだけ振り回されたのに、ただ追い出すだけじゃ俺の気が収まらない」

 栄がそう言うと羽多野はわずかに落胆の表情を見せた。思ったように感情を乱せなかったことに戸惑っているのだろうか。

 思えば出会い頭から栄は羽多野とのあいだには絶対的な差異があった。国民の代表である政治家の代理人としての議員秘書と、圧倒的に立場の弱い公務員。しかしそれだけではなく、ほんのわずかな会話で内心を暴かれ醜悪な内面を笑われ、何を言っても軽くあしらわれて――。

 何にも動じない男だからどうしたって敵わないと、意識の深い場所ではそう思っていた。その先入観は羽多野が議員秘書のポストを失ってからも変わらず、一緒にいるあいだは何もかもが思うようにいかずいつも苛立っていた。だがその一方で、強引で絶対的な自信を持つ男に振り回され、慰められることが暗い過去を考える時間を減らし、栄をいくらかでも楽にしたこともまた確かだった。でも、今の栄は羽多野だって古傷を持ち葛藤を抱えるただの孤独な男なのだと知っている。だからもう、こんな上っ面の言葉に振り回されはしない。

「……威勢がいいな。もしかして宿泊費でも取り立てに来たのか? だったら言い値で払うよ。一泊一万? 二万? 好きな額を言えよ」

 何かがおかしいと感じているのだろうが、それでも普段の虚勢を崩さない羽多野が悲しくて栄は唇を噛み締めた。

 栄との一件がここまで羽多野を痛めつけたとは思わない。ただあれがきっかけで、彼の中の何かが折れたのは確かだ。リラたちとのこと、失った仕事のこと、葬る努力をしてきた過去が墓場から蘇って羽多野をこの墓穴のような部屋に埋もれさせた。

 ろくに外出もせず、ただ酒を飲んでは辛いことを忘れることを繰り返す日々。やけっぱちな顔で人の心配を金の話に変えようとする惨めな男。それでも栄は今、彼を放っておくことはできない。

「宿泊費をたっぷり取り立てるっていうのも確かにいいアイデアですね。もちろん今回の俺の旅費を含めて」

 そこで一度言葉を切って、意識して唇に笑みを浮かべようとする。普段の栄ならば激昂してもおかしくない挑発だったのに、これまでとは明らかに異なる会話の流れに違和感を抱いているであろう羽多野は黙って眉をひそめた。

「あなたの何に腹が立ったかっていうと、やっぱり一番は、頼んでもないのにナオが笠井未生と付き合ってるなんて知らせてきたことなんですよね。せっかく忘れようとしていたのに、あれで一気に引き戻されたっていうか、本当にむかつきましたよ」

「それを謝ればいいのか?」

 今ならこの男は栄を追い出すために土下座だってするかもしれない。ふと頭をかすめるが、求めているのはそんなものではない。栄は左右に首を振って羽多野の問いに答える。

「いいえ。そんなことより俺、クソみたいにプライドが高いもんで、不愉快な目に遭わされたらそれ以上にしてやり返さないと気が済まないんです。あなたもわざわざロンドンまで、最悪の情報を伝えに来てくれたでしょう? だから……」

 そして栄は、どのタイミングで告げようか迷っていた言葉を口にする。

「高木リラさんのお父さん、昨日の朝方に亡くなったそうですよ」

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