羽多野はゆっくりと目を見開き、それから視線を下に向けた。
「……どうして君がそれを」
表面的にはそこまでの動揺はない。死期が近いことを知っていたからか、それとも栄の手前なんとか感情を堪えているのか。昨日リラから連絡を受けて以降、どのタイミングでどう伝えるべきか悩んでいただけに、栄としては羽多野が大きく取り乱さなかったことには救われた。
「言ったでしょう、頭下げて回る羽目になったって。どうして事情があるなら話さなかったんですか」
「取りつく島もなかったじゃないか」
苦々しそうに羽多野がつぶやき、栄は一瞬口ごもる。だが、羽多野の不実は栄が激怒したあの晩にはじまったわけではない。むしろあそこに至るまで彼が何も語らなかったことに栄は失望しているのだ。
「それは……あのときは確かにそうだったけど、別にたった一日しか一緒にいなかったわけじゃないでしょう?」
強い言葉で言い返すと、羽多野は当て付けのように今日何度目かわからないため息を吐く。
「そんな話聞いてどうするつもりだった? 元嫁の父が死にかけてるのに――呪いの言葉を掛けてやるつもりで来たんだって俺が言ったら、君はどう思った?」
「呪いの?」
聞き捨てならない言葉を、栄は小さく復唱する。
羽多野が病院に通い詰める中で何を考えていたのかは、いくら考えてもわからないことのひとつだった。だが今羽多野ははっきりと「呪い」という言葉を使い、彼の頭にあったのが許しでも和解でもないということを明言した。感情としては理解できる――だがそれは、栄の中に今なお残る羽多野という男へのイメージとはなかなか重なり合ってくれない。
「リラには会ったのか」
思わずこぼれた禍々しい言葉を拾われたことが気まずいかのように、羽多野は話を変える。栄もリラとのことを隠すつもりは毛頭なかった。
「ええ。あなたの連絡先を知っているのかもしれないと思ったから」
「どうせ何もかも洗いざらい話したんだろう? 君が俺を心配している振りをすれば、真に受けて家族の恥部だって簡単に口にする。良くも悪くもそういう女だ」
諦観とわずかな蔑み、それが羽多野の言葉に含まれるすべてだった。最初にリラの存在を知ったときに栄が脅かされた、元配偶者への愛情やいたわりのようなものはこれっぽっちも含まれていない。羽多野はただ、冷淡だった。
「で、谷口くん。君はその話を聞いてどう思ったんだ?」
唐突な質問に言葉に詰まる栄を見て、羽多野は微かに苦笑したようだった。薄暗い部屋をゆっくりと歩き、ソファ――正確にはソファの上に積んであるブランケットの上に腰を下ろした。まるで、長い距離を歩き疲れてこれ以上立ち続けることすら難しいとでも言いたげな動きだった。下ろしそびれていたコンビニエンスストアの袋を床に落とす、コツンという音が響く。
立ったままの栄は必然的に羽多野を見下ろすことになる。そのまま少し考えて、正直な感想を告げた。
「俺はいつだって他人と自分を比較して、人の評価を気にしてばかりの男です。嫌だと思ってもそういう性分だからどうにもならない。だから、あなたの飄々として執着のない感じをうらやましいと思っていました。少し前までは」
「今は?」
「哀れだと思います。本当は何ひとつ割り切れていないのにあきらめたふりをして、傷ついていない振りをしている羽多野さんのことを」
またひとつ、大きなため息。羽多野は手を伸ばすとビニール袋の中から汗をかいたビールの缶を二本取り出した。
「みっともないけど、そうだったみたいだな」
一本をこちらに向けて差し出してくるが、腹が立ったので栄はその手から二本とも取り上げた。ついでに床の袋も拾い上げて後ろ手に隠してしまう。こんな話すら素面ではできない羽多野のことが苛立たしく、同時にやるせない。
「俺は真面目な話をしにきたんです。酒でごまかさそうとしないでください」
「ごまかすな、か。君は本当にどこまでもまっすぐというかクソ真面目というか」
いつもと同じ、融通の聞かない栄を揶揄する言葉。同じセリフが今日はやたらと虚しく響いた。
真面目な話、そんなことを言いつつ本当は栄は自分でもここに何をしに来たのかはわかっていなかった。ただ自分がこの男と話をしたいと――彼がずっと隠してきたことや、自分がずっと聞けずにいたことをすべて知りたいと思っていることは確かだ。
「俺は結婚したいとも、子どもを持ちたいと思ったこともありません。むしろそういった、普通に生きていれば当然家族や周囲から求められるだろうレールを、いかに人から妙だと思われることなしにやり過ごすかを考えてきたような人間だから……正直いって羽多野さん、あなたの気持ちは理解できない」
ビールを取り上げられて手持ち無沙汰なのか羽多野は膝の上で両手の指を組み合わせる。その指先が小さく震えているように見えるのは気のせいだろうか。
「理解する必要なんてないさ。あれは惨め以外の何ものでもないから。君、前に勃起しなくて悩んでるっていっただろ? 気持ち的にはそれと似てるかもしれないな。もっとも俺はそっちの方はまったく問題なかったし、だからこそ自分の体がそんな状態だなんて気付かなかったんだが」
「病院に行って、初めて?」
「ああ。自分に原因があるだなんて思っていなかったから軽い気持ちで。でも――最初の検査結果が出てからは地獄だったな」
一度だけで確定診断は出せないからと、羽多野は数度の検査を受けた。その後はわずかな可能性にすがって投薬治療も試みた。怪しげな東洋医療のクリニックで漢方薬や鍼灸を試したこともある。まじないみたいなものだけどそれなりに真剣だったんだと羽多野は弱々しく笑った。
「今回こそはって病院に行くんだ。一応、専用の部屋があるんだよ。検査するには検体が必要だから、そこで採るわけ。っていっても小便と違って、溜めて腹に力入れれば出るってわけでもないからさ……」
一瞬何の話をしているのかと思ったが、病院での検査のために精液を採取するときのことだと理解する。学生時代に剣道で怪我をして整形外科に通ったことと、胃潰瘍での入院以外は病院に縁なく生きてきた栄にとって、その手の検査というのは想像するのも難しい。ただ、病院で検査のために精液を出すことの虚しさは男として理解できる気がした。
「向こうだって何もせず出るはずないってわかってるから部屋にはポルノ雑誌が置いてあるんだけどさ、洋モノだから情緒も何もないんだよ。ただでさえそういう気分じゃないのに金髪爆乳のでかい女がドヤ顔でポーズ取ってるの見ても抜けるはずなんてなくて。当時はまだスマホで気軽にエロ動画観られる時代でもなかったし、苦労したよ。それでやっとのこと出しても、中は『空っぽ』なんだから」
羽多野は薄笑みすら浮かべたまま淡々と語る。こちらに話かけているようで、ただ独り言であるようにも聞こえた。だから栄は黙って耳を傾ける。
栄も一時期は真剣に勃起障害に悩んだ身だ。セックスへの欲望自体はそう強い方ではなかったが、「しない」ことと「できない」ことはまったく異なる。触れてもほとんど硬くならず、射精など程遠い自分の下半身に泣きたいような気持ちになった日々のことは思い出すだけでゾッとする。
勃起や射精の問題は栄にとって男性性の危機だった。羽多野にとって妊娠能力の問題は彼に男性としての――いや、それだけでなく存在意義そのものへの脅威をもたらした。
「谷口くんの前で格好つけても仕方ないから言うけど、病院に行くまでは正直、原因があるとすればリラの方だろうと思ってたんだ。俺の中にはさっさとガキの一人、二人でも作ってあの家での立場固めたい気持ちもあったから、なかなか妊娠しないあいつに内心むかついたりね。それが、蓋を開けたら俺が種なし。マジかよって。それで案の定、子を作れない男にはもう用はないって」
最終的に離婚の話を切り出したのはリラの父だと言っていた。血のつながった子どもがあきらめきれないという娘の気持ちを汲んで悪役を引き受けた父はおそらくその役割を完璧に果たした。
「ふざけんなって感じだよな。偶然渡米したのが数代前で、偶然商売に成功しただけで、あいつらだって元々は日本で食い詰めてアメリカに渡った奴らだぜ? それがちょっと成り上がったからって血筋だ跡継ぎだって……馬鹿じゃねえのって」
そう吐き捨てる羽多野の顔から笑いは完全に消えている。
「でも……最終的には相手の言い分を受け入れた」
「調停になれば負けるってわかってるんだから、無駄だよ。だったら引っ張るだけ引っ張ってやった方がいいやって、金は弾ませた。あいつらの汚い金に手をつけるつもりはなかったんだけど、もらっといて良かったな。まさか十年後にあんな形で無職になるとは思わなかったから。おかげで仕事しないで食っていけてる」
結婚時に高木家は羽多野の抱えていた学生ローンの残債をすべて支払った。そして、離婚時には相当の和解金。羽多野が議員秘書の職を失った後も悠々と「無職」を続けていた理由はこれで明らかになった。さっきやけっぱち気味に口にした「言い値で払う」というのもあながち冗談でもないのかもしれない。
それと同時に「汚い金」に手をつけるほどの状態に陥ったという意味では、一年半前の政治スキャンダルもまた羽多野に大きな傷と失望を与えたのだということも栄は理解した。へらへらと笑って無職生活を楽しんでいる羽多野は本当は絶望して疲れ果てて、新しい仕事に踏み出す気力すら失っていたのだ。
「羽多野さんは、その恨み言をリラさんのお父さんにぶつけるつもりだったんですね」
「ゴミみたいに人を捨てておきながら死ぬ前に謝って気を楽にしたいなんて、ふざけた話だよ。どうやって連絡先を探り当てたのかわからないが、リラからの電話を聞いているうちに腹が立って、途中で切った」
そうだ、一度は羽多野はリラの求めを拒否した。なのになぜだか思い直して、ロンドンにやって来た。リラには何の連絡もせず密かにロンドンに滞在し、いつ呪いの言葉をぶつけてやろうかと考えながら日々病院に通い詰めていたのか。
「最初はロンドンに行くつもりなんかなかったよ。顔も見たくない奴らだ。でも、一度リラの声を聞いたら何だかやたらと昔のことを思い出して……俺をあんなふうに扱った奴をそのまま逝かせていいのかって」
「だから、気が変わってロンドンへ?」
栄がそう言うと、羽多野は顔を上げた。
「それに、ロンドンには君がいたから」
膝の上で組んだ指が解ける。右手は持ち上げられ、軽く伸ばされる。いつも短く整えられていた爪が伸びすぎているのを栄はじっと見つめた。それから手にしていたビールの袋を左手に持ち替えると、右手をゆっくりと差し出す。
弱い力で握り合った手は、どちらも同じくらい冷たかった。