第67話

 指先を触れ合わせたまま栄は問う。

「俺は、あなたに嫌われているんだとばかり思っていました」

 今になってしおらしい顔で「君がいるからロンドンに行った」などと言われても頭から信じる気にはなれない。差し出されたこの手すら、いつもの気まぐれである可能性は十分ある。

「嫌いだったよ、憎らしかったと言っていい。俺が嫌いなお育ちの良いエリートそのもので、根本的に自分の優位を疑わないタイプだ。君の取りすました顔を見るたび腹が立った。仕事をいいことに無理な要求をぶつけて、虐めて、いっそ潰れればいいのにと思ってたよ」

 当時の栄がまるで個人的な憎しみをぶつけられているようだと感じていたのはあながち間違っていなかったわけだ。覚悟していた言葉とはいえ、憎しみを口にされて気分が良いはずはない。落胆ゆえ栄は反射的に右手を引こうとするが、羽多野は指先にぎゅっと力を入れてそれを拒んだ。

 顔を上げた男の伸びすぎた前髪の隙間から、向けられた視線が栄を捉える。

「だけど君は他の奴とは違った。同じようにきつく当たると大抵の役人は俺を避けるようになる。対応を部下に下ろしたり上司に頼ったり、『その案件はうちではありません』って他省庁にぶん投げようとする奴もいたっけ」

 その言葉に揶揄する響きは含まれていない。だが、過去には栄の仕事への姿勢について批判的な説教を繰り返した相手にいまさらそんなことを言われても疑わしいだけだ。

「他人に頼れない俺のこと、馬鹿にしたくせに」

「ああ、馬鹿だと思うよ。でも君は優秀で責任感が強くて努力家で、どんな無茶な要求にも出来る限り誠実に対応しようとした。やつれてぼろぼろになっても自分一人で面倒な部分を背負おうとしてる姿を見てとんでもない馬鹿だと思ったけど――同時にすげえなって思ったよ」

 もはや褒められているのか貶されているのかもわからず、栄はただ立ち尽くした。目の前で倒れた栄をこの男はどんな気持ちで眺め、救急車を呼んでくれたのだろうか。「寝付く」と「根付く」をかけて入院患者相手には縁起が悪いと言われる鉢植えをわざわざ見舞いの品に選んで「休め」と言われた、あの言葉に気持ちが楽になったのは事実だ。

 出会って以来のやりとりを思い出し、栄は今の羽多野が口にする言葉と重ねようとする。羽多野もきっと今、同じことをしている。そして過去の自身の愚かさと向き合っているのだろう。

「ただ運よく金があって教育熱心な親のもとに生まれただけなのに、何もかも自分の努力の成果ですって顔をしてる奴なんて最悪だと思ってた。でも谷口くんを見ていると、恵まれた人間にはそれゆえのプレッシャーがあって、戦っているんだって。……こんな年齢になるまでずっと、そんな当たり前のことにも気付かなかったんだ」

 笑いには自嘲が混ざる。でも自分だけが辛くて、自分の努力だけが報われないと思ってしまうのは誰にでもあることだ。現に栄だって、他人の努力や苦労にはどこまでも無知で無関心だった。

「俺だってあなたの話を聞くまでは、子どもの頃に海外生活を経験してるってだけで英語に苦労しない人たちのことを羨んでいました。同じですよ」

「どうしたんだ、柄にもないことを」

 そう言われて栄は、意識せず自分が羽多野を慰めるような言葉を口にしていたことに気づいた。指摘されれば恥ずかしくなって、素直に同情や共感を口にすることはできない。

「言ったでしょう、俺は負けず嫌いなんです。あなたが強くて、物事に動じなくて、俺のことを下に見てると思ってたからずっと気に食わなかった。でも今の羽多野さんは――」

「君にとって敵愾心を抱く価値もないか」

 必死になって逆玉に乗ったつもりが身体の問題ですべてを失った。日本に戻り何とか過去を割り切って仕事に打ち込んでいたのに、最終的にはつまらないスキャンダルの責任を被せられあっさりと切り捨てられた。確かに不幸だ。そして、本来の羽多野がプライドの高い男であることを思えば、栄相手にも弱音を吐けなかった気持ちは理解できる。

 羽多野はきっと、仕事で失敗して恋人を失った栄に自らの不幸を重ねた。もしかしたら栄に対して口にした慰めの言葉のすべては、同時に彼自身に言い聞かせるものでもあったのだろうか。仕方ない、誰も悪くない、どうしようもない。そう言い聞かせ、でも本当は割り切ることもあきらめることもできずに。

「ロンドンに黒いスーツを持って来ていましたよね」

 いつか客用寝室のクローゼットで見つけた服のことを栄がたずねると、羽多野は少し驚いた素振りを見せてから、あれはリラの父の見舞いに着て行くつもりだったのだと打ち明けた。

「俺の人生がいつもつまずくのはあいつのせいだと思ったら、堪らなくてさ。病室に行って改めて恨み言をぶつけてやるつもりで。葬式で着るような服着て地獄に落ちろって言ってやれば気が晴れるかなって、数え切れないほど想像したな」

 でも――羽多野はそれを実行には移さなかった。黒い服はクローゼットで眠り続けたし、二ヶ月ほども毎日のように病院に通い、今日こそ明日こそ病床の老人に憎しみをぶつけてやろうと考えながら、実際は思いとどまったのだ。

 栄はそれを正しい判断だと思った。他人であるリラのことも、リラの父のこともどうだっていい。ただ、激情に任せた乱暴な行動は、きっと後々羽多野の心にこそ消えない傷を残しただろうから。

「でも羽多野さんはやらなかった。これからやろうとしたって、できない。だってその人はもういないんだから。良かったんです、それで」

 身を乗り出して訴える栄に、羽多野の表情が緩んだ。

「だからロンドンに行ったんだ。悪趣味な復讐を望む自分を抑えるのは難しくて、でもロンドンには君がいたから。クソ真面目で融通が聞かない谷口くんなら――そうやって正論で俺を叱って、止めてくれると思った」

「それをどうして言ってくれなかったんですか」

「狡い気落ちが芽生えた。一緒にいるうちに君に良く思われたいと、格好つけたままでいたいと思うようになった」

 生真面目な栄に復讐について口にすればきっと望むとおり正論で羽多野を止めただろう。だが同時に、羽多野の抱える恨みや憎しみといった醜い部分を嫌悪するのではないか――それゆえロンドンに滞在する理由は伏せられ、羽多野はどうにか自分の中だけで過去を思い切ろうとした。それがアリスに告げた「もう大丈夫」「もう病院にはこない」の真相だった。

 だが本人なりに覚悟を決めた翌日に、思わぬ場所から羽多野の過去は栄の知るところとなった。

「それであっさり逃げるなんて、最低です」

「だって谷口くん、本気で怒っていたし、本気で俺を拒絶していたから」

「その程度で撤退する覚悟なら、最初から俺に手を出そうなんて考えないでください。格好つけてたのが台無しどころか、マイナスですよ」

 改めて羽多野の顔を見つめる。部屋の薄暗さのせいで外で見たときよりさらに陰鬱に見えた。そもそも身だしなみを気にしない人間は栄にとってもっとも軽蔑すべき部類に入る。

「本当にひどい。見た目が悪くないのは数少ない羽多野さんの美点だと思っていたけど、こんな小汚くなっちゃって。いいとこないですよ。自分勝手だし、口ばかり上手くて、いい歳して無職で……」

 欠点を上げはじめるといくらだって出てくる。得意になって羽多野の駄目な部分をあげつらう栄に、羽多野が笑う。

「そんな俺と比べると、谷口くんはまるで王子様だ」

「からかわないでください」

「本気だよ。さっきマンションの前に立ってる君を見て、白馬に乗った王子様かと思った」

 ようやくいつもの調子が出てきたのか、軽い口調で誉め殺しにかかる男に栄は呆れたようにため息をついた。

「……ったく、あなたって」

 だが、そうつぶやいて視線を落とすと羽多野はもう笑っていない。握り締めた栄の手をじっと見つめ、思いのほか真剣な口調で続ける。

「きれいで、恵まれて、世馴れた振りして本当は汚い世界なんて知らない。そのくせ誰より真面目で努力家で健気で。――君の高慢な顔を見ていると、ひどくして汚してやりたい気持ちと甘やかしてやりたい気持ちがせめぎ合う」

「どっちも遠慮します」

 そんなのいい迷惑だ。気まぐれに優しくされたりひどくされたり、こっちの身が持たない。栄は不満を訴えて今度こそ本気で羽多野の手を振りほどいた。

「冷たいな、俺は弱ってるんだからちょっとは優しくしてくれよ」

「今になって哀れぶったって駄目です」

 栄は自由になった手を伸ばしてテーブルの上の薬局の袋に手をやる。羽多野は制止しようとするが、とても届かないことを悟ったのかあきらめたように袋の中身を確かめる栄から目を逸らした。

 輪ゴムでまとめられた錠剤のシート。一緒に入っていた四つ折りのコピー用紙を開くと、処方薬の説明が印字されている。睡眠導入剤。

 心が折れた、その気持ちはいやと言うほど分かる。仕事で追い詰められて、恋人との関係に行き詰まって、かつての栄も同じような絶望を味わった。一度は心の整理をつけたと思っても、ふとした拍子に痛みや後悔は蘇る。もしかしたら、これからもずっと――。

「まったく、こんなものに頼っちゃって」

 栄は薬をテーブルに戻す、と同時に羽多野から取り上げて左手に持ったままだったコンビニエンスストアの袋も床に落とす。そのまま一歩踏み出すと羽多野の髪をそっと撫でた。自分の髪質とも尚人の髪質とも違う、男っぽく硬い髪。

 羽多野はしばらくされるがままになっていたが、やがてゆっくり腕を上げると栄の腰を緩く抱いた。

「俺は――」

 喉まで出かかっているのは恨みの言葉か、憎しみの言葉か。もしくは後悔や自己憐憫。羽多野の中に溜まった十年、二十年、もしかしたら三十年分の澱はあまりに暗く淀んで、底知れない。話すことで楽になるのならば話せばいい。だが、今の羽多野はあまりに疲れている。

「まだ懺悔が足りないならば、後でいくらだって聞いてあげます。でも、こんな部屋じゃ聞き終わる前に病気になりますよ。窓を開けて掃除をして、髭を剃って髪も切って、まともな飯を食って、こんなもの使わずにゆっくり眠って――」

「眠れないし、眠っても嫌な夢を見る」

 赤子のように抱きついてくる男を栄は見下ろす。眠れないなんて、本当はいつから? 眠れない夜を過ごす栄に手を差し伸べてきたあのとき、羽多野は夜をどう過ごしていたのだろうか。

 こんなこと本当はごめんだ。死んだって自分から譲歩なんてしたくない。だが今日は羽多野があまりに弱っているから――栄が辛い時期に手を差し伸べてくれた男だから――だから、今日だけは特別だ。

 栄は、羽多野の髪に指を絡めたまま言った。

「俺、悪い夢を見ずにぐっすり眠れる方法を知ってますよ」