第68話

 腰に回された羽多野の腕がぎゅっと力を増す。眠るための方法、というふたりのあいだではあまりにあからさまな符号を羽多野が聞き逃すはずはない。それなりの覚悟を持って口にしてはみたものの、いざ手放してみれば言葉だけが自分の意思とも感情とも離れたところを漂う心細さがあった。

 何か言わなければいけないと思った。例えば今の発言を冗談めかすような軽口とか、もしくはこの重苦しい空気を変えるような話題。抱き合うにしたって順序がある。まずはこの男を引きはがしてカーテンを開けて――栄が動き出そうとしたところで、羽多野が低い声でつぶやいた。

「君にもうひとつ、秘密を打ち明けようか」

「どうしても、今?」

 暗い話は後にしようと言ったはずなのに、羽多野はどうしても堪えきれないとでもいうように苦し気な言葉を吐いた。

「――リラを愛していなかった」

 栄は驚かない。当時の羽多野がそういう男だったことは四ノ宮やリラの話からも容易に想像できたからだ。むしろなぜ羽多野が今、さも重要なことであるかのようにそんなことを言い出すことの方が不可解に思えた。

 羽多野が欲しがったのはリラではなく、リラの夫となることで得られる富や地位。だが、リラにとっても一番必要だったのはきっと父親を納得させることができるような結婚相手だった。互いに経歴も悪くない、見た目も悪くない。燃えるような恋を伴わない結婚などこの世にはいくらだってあるし、それでも一緒にいるうちに情が生まれることはある。

「でも、夫婦の仲は良かったって聞きました」

「良かったよ。当たり前だろう、俺たちの利害は完璧に一致していたんだから不満なんかあるはずもない」

 互いの利害がぴったりと一致した夫婦。まるでパズルのピースのようにあまりに完璧だったからこそ、ひとつの欠片が抜け落ちればそこを埋めることは困難になる。両親に祝福される結婚を望み、血のつながった子を夫婦で育てることにこだわったリラ。大切に作っていたドールハウスには、どうしても手に入らないパーツがあった。だが、もしも偶然欠落していたのが別のパーツであったならば、運命はどう動いていただろう。

「あれは偶然なんだ。偶然俺に子種がなかったからあいつらが俺を捨てた。もしも持ち上がったのが別の問題だったなら、例えばあいつの親父が事業に失敗でもしたならば俺は簡単にリラを捨てただろう」

 これが羽多野が復讐を迷い続けた理由だと、栄は理解した。リラやその家族に切り捨てられたことに怒りと恨みを抱き続けながら、同時に羽多野は自分が彼らを切り捨てたかもしれない可能性を認めている。

 勝手なのはお互い様であるにも関わらず憎しみを捨てきれない、羽多野は誰よりもそんな自分自身を嫌悪していたのかもしれない。きっと、栄が尚人を幸せにできなかった自分のことを思い出しては自己嫌悪に沈んでいたのと同じように。

「羽多野さん、ナオの裏切りを許した俺に『次は自分を許すことを覚えるべきだ』って言いましたよね。あなただって自分のことを許せずにいるくせに、偉そうに」

 栄は苦笑して、ついでにわざと意地の悪いことを言ってやったつもりだが羽多野の反応は芳しくない。

「愛してもいなかった女にどうしようもない理由で捨てられたことを引きずって。そのくせリラが娘の手を引いてるの見てまたショック受けてみたり……」

 その先は言わなくたってわかる。「あの日」のことだ。羽多野が妙に憂鬱そうで、苛立っていて、栄に未生と尚人の関係を明かした日。どうしようもないとわかっていながらリラの幸せに嫉妬して、その苛立ちややるせなさをぶつける先が他に見つからないから栄を傷つけた。

 考えれば考えるほど、この状況は貰い事故に近い。出会った瞬間から嫌いなタイプだとさんざんな嫌がらせを受けて、一方的に同情されたかと思えば救いを求められる。羽多野といるといつだって調子を狂わされっぱなしだ。栄が自分にとっての「あるべき姿」を守るため築いた殻を容赦なく引き剥がしその内側を暴き立てる。そのたび栄は戸惑い怒り傷つき――でもなぜだろう、少しだけ心も体も軽くなるように思えるのは。

 そして羽多野も今、長いこと纏い続けていた重い鎧を降ろし、無防備な姿をさらして少しは呼吸が楽だと感じているだろうか。

「もういいです。あなたがどうしようもないクズだってことは十分すぎるほどわかりました。羽多野さんみたいなろくでなしが、出世とか結婚とか人並みの幸せを望んだのがそもそもの間違いですよ」

「だったらどうすればいい」

 問われて栄は少し考え、ヒルのように自分の腰に抱き着いたままの男に告げた。

「あなたなんて、俺の前でひざまずいてるのがお似合いです」

 ふふ、とようやくこぼれた笑い声が栄の腿をくすぐる。やっと顔を上げた男は泣き笑いのような表情で、そっと栄の両腕を引いた。強引ではない動きに促されて栄がそのままソファに座ると、なぜだか羽多野は入れ替わりにソファを降り床に跪いた。

 フローリングに置いた栄の右足が持ち上げられ、まずはスリッパが取り去られる。次にソックスを引っ張って完全に脱がせると、羽多野はうやうやしく栄のつま先に口付けた。

「王子、仰せのままに」

「……変態」

 顔を赤くして、栄は羽多野の腕を蹴りつける。神妙な態度にちょっと気を抜けばこの始末だ。

「ひざまずけって言ったのは自分のくせに、相変わらずわがままだな」

 蹴られた場所を大げさに抑えながら、ようやく羽多野にもいつもの調子が戻ってきたようだ。栄の右足首を捕えると、今度はそのまま高く持ち上げる。片脚を高く上げる姿勢でバランスを崩した栄は背中からソファに倒れ込みながら羽多野の意図を知り、怯える。

 確かに羽多野が辛いというなら、眠れないというなら助けになりたいと思った。だがそれはこんなに早急に、心の準備もなしにという意味ではなく――。いざとなれば勇敢な覚悟など、すぐにどこかに消えてしまう。

「今すぐなんて言ってない。こんな昼間から」

 仰向けに横たわった栄にまたがってダウンジャケットを脱ぎ捨てようとする男の胸を押し返しながら訴える。だが、羽多野は動きを止めるどころか薄く笑って栄の言葉の続きを奪った。

「こんな汚い部屋で、こんな小汚いおっさんと……あとは、何? 谷口くんは気まぐれだから、こんな千載一遇のチャンスを逃すわけにはいかないだろ」

 一応シャワーは朝浴びたから、と囁く声にそういう問題じゃないと言い返したいのは山々だが、声を出す余裕がない。コートのボタンが外され、その下に着ているセーターとシャツは脱がすのも面倒だとばかりにまくり上げられる。むき出しになった腹に冷たい部屋の空気が触れて栄は息をのんだ。

 コートがしわになる。こんな力任せに引っ張られてはセーターだって伸びてしまう。着替えはそんなに沢山は持ってきていないのに。頭の中を本質とは関係ないことばかりが行き交った。

 見上げれば、そこには羽多野がいる。栄にとって既によく知る男だが、変わり果てた風貌のせいか初めて触れる男でもあるようにも思えた。次の瞬間、体重ごと覆いかぶさってきた羽多野にそのまま強く抱擁される。少しだけ痩せた肩口にぐっと顔を押し付けられ呼吸すらままならない。

「また、駄目になったかと思った。いつもやっと上手くいったと思った頃にひっくり返される。俺の人生なんて結局そんなもんだと思った。でも君は……ここにいる」

 そして栄は悟った。少なくともこの男は今、自分に愛されることを待っている。そして栄もきっと、もしかしたらずっと――。顔を横向けてやっと呼吸が楽になった栄が大きく息を吐いて硬直した体の力を緩めると、羽多野が耳元でささやく。

「俺は君や君の元恋人みたいにお上品な人間じゃないって、前にも言ったよな」

 この腕をほどいて立ち去るなら今のうちだと親切にも警告しているのだろうが、言葉と裏腹にきつい抱擁は少しも弱まらない。もうこれ以上は、そう思うタイミングは何度もあった。ここから先に進めば戻れなくなる、赤い点滅灯をはっきりと意識した上で栄は毎度そのラインを踏み越えてきた。

「知ってます」

 栄が静かにそう答えると、羽多野は「わかってないよ」と食い下がる。

「つまり、君が痛がったって恥ずかしがったって、止めてなんかやらないってことだ」

 そのまま耳たぶに噛みつかれて大きく体を震わせた栄は、一瞬の躊躇の後に両腕を伸ばすと羽多野の背中にぎゅっとしがみついた。