第69話

 耳元に熱い息がかかる。羽多野は栄の耳たぶを吸い、そのまま舌を耳孔に滑らせた。と同時にまくり上げたシャツの下に乱暴に手を突っ込んで肌をまさぐりはじめる。

「重い……息が苦しい……」

 苦痛を訴える言葉は無視され、濡れた音が直接耳から頭に抜けると背中をぞくぞくと寒気に似たものが走り抜けた。自分より体格に優れた男に完全に体重を預けられて重いのも苦しいのも本当だが、わざわざ口にしたのはほとんどただの照れ隠しだ。

 栄の震えに気付いたのか、羽多野は「寒い?」と囁くとテーブルのリモコンに手を伸ばした。勢い余ってすぐそばにあったビールの空き缶がいくつか音を立ててフローリングに転げ落ちた。小さな電子音に続いてエアコンの羽が上がるモーター音。ほんの微かでもこの部屋に自分と羽多野以外が発する音が存在することに、なぜだか栄は安堵した。

 電源をいれると用無しとばかりにリモコンを放り投げた男の唇は栄の首筋を下に向けて伝うが、服を着こんだままなので鎖骨までたどり着くことは困難だ。もどかしげに何度かシャツの合わせ目あたりを爪で掻き、ボタンを外す余裕すらないのか首元から攻めるのをあきらめた羽多野は、栄の腹の方からシャツの下に頭を突っ込もうとする。あまりに乱暴な動きに思わず体をすくめて栄は訴えた。

「ちょっと羽多野さん、落ち着いて」

 何をどこまでやるかはともかく抱き合うこと自体は栄だってやぶさかではない。何より、これまでの羽多野は感極まるタイミングを別とすればいつだって余裕たっぷりに振舞っていたではないか。じわじわと快楽を与えて栄が我慢できなくなるのを待ち構える狡猾な狩人だったはずの男は、今やその外見も相まって飢えた野獣のようにすら思えた。

「──っ」

 へその窪みを舌で愛撫されるのははじめてではない。だが今回はそれに加えて周囲の敏感な皮膚に羽多野の無精ひげが擦れる。ざらざらとした感触がくすぐったくて栄は弓なりに背を反らせた。

 やがて舌先は栄の脇腹へと滑っていく。

「ここのあざ、やっと消えたんだな」

「……おかげさまで」

 久しぶりの剣道で作ったあざは羽多野の献身の甲斐あってかすっかり消え去った。仕事その他で慌ただしく過ごして新しいあざを作りに行く暇もなかったから、栄の脇腹は今ではすっかりオフィスワーカー特有の生白い肌に戻っている。言葉だけでは足りないとばかりに、かつて青紫色の醜いあざがあった場所を唇と舌でじわじわとなぞりながら、羽多野の指は別の場所へと這った。

「っあ!」

 羽多野の指──伸びすぎた爪の先が胸を引っ掻いたのは突然のことだった。栄は自分の口から飛び出した思わぬ嬌声に顔を赤らめる。今までここに触れられたことはないはずだ。羽多野は栄が女のように扱われたがっていないことを知っているし、栄本人も自分のそこを性的に捉えたことはない。

「待って、そこは……っ」

 なぜ嫌なのか、どうして止めようとしているのか、言葉にできないまま栄は羽多野の手首を慌てて掴む。本日初めての本格的な抵抗に、ただでさえ男ふたりの体重に耐えるので精一杯なソファがぎしぎしと怪しい音を立てた。第一、座面が広く横にだってなれる栄のアパートメントのカウチと比べてこのソファは狭すぎるのだ。

 しかし、栄の焦りとは対照的に脇腹にしつこくうずめていた顔を上げた羽多野は満足げな笑みを浮かべていた。しおらしく落ち込んでいた姿は薄れいつもの羽多野が徐々に戻ってきているようで、栄は安心すると同時にまずいことになったとも感じる。

 案の定、羽多野はいたずらな右手を封じようとする栄の両手に視線を落とすと、それを剥がしにかかった。栄はむきになって両手に力を込める。しばし無言の攻防が繰り広げられ、苛立ちを口に出したのは羽多野の方が先だった。

「おい、その手を離せ」

 まるで彼にはすでに栄の何もかもを好きにする権利があるとでも言いたげに、表情には不満がありありと浮かんでいる。

「いやです。だって離したら……」

「ここに触れられるのが、そんなに怖いのか?」

「あっ……」

 手に気を取られていたので他への注意がおろそかになっていた。顔を近づけ胸の先端にふうっと息を吹きかけられると、栄は息をのんでもどかしく身を捩る。と同時に思わず両手の力が緩んだ。もちろん「マットの上での優位」を断言する男はその一瞬を逃しはしない。ひとまとめにした栄の両腕をソファのひじ掛けに釘付ける。

「それは、嫌だって……」

 訴えは聞き入れられず、羽多野は再び爪の先で栄の左の乳首を軽く引っ掻いた。違和感とじれったさと──甘い疼きがそのまま腰まで突き抜けて、栄はそんな自分に戸惑うばかりだ。

「ちょっと我慢してろ。大丈夫だから」

 何の慰めにもならない言葉を吐いた男は栄の右胸に顔を伏せる。次にどんな刺激が襲ってくるかはわかっている。嫌だ、怖い、そんな気持ちの裏に見え隠れするのは快楽への期待。ぎゅっと目を閉じると同時に生温かい感触が再び肌を撫でた。

「──だから、そんなとこ普通の男は感じないんだって!」

 最後の矜持を振り絞る。八割はただの意地だが、残りの二割は実体験でもあった。尚人を抱いている最中に栄は何度かそこに触れてみたことがある。だが、いくら触れても尚人はくすぐったがるばかりで、むしろベッドの色っぽい雰囲気すら失われるくらいだったのだ。確かに笠井未生と寝るようになった後の尚人は胸に反応していたが、それはあのクソガキが――。

「『普通の男は』ねえ」

 あまりに主語の大きな栄の発言に、羽多野はいったん顔を上げると懐疑的な返事をした。

「谷口くんの知ってる事例なんてどうせ元彼ひとりだけなんだろ。N=1でわかったようなこと言われたって信用ならないな。君らのやり方が悪かったんじゃないのか」

「なっ!」

 要するに、栄の行為が拙かったと言いたいのか。ちょっと優しくしてやれば増長する、あまりに失礼な言葉に栄は顔を赤くして起き上がろうとした。だがそこは羽多野も見越していたようで、ごつんと額を当てて栄の動きを封じた。

「嘘々。でも、ほら、そういうのってタイミングとか相性もあるわけだし。何より谷口くんは賢くて覚えが良くて、なんだってやればできる優秀な子だから」

 褒めて伸ばす──というより褒め殺し、いや馬鹿にされているのか。そんなことを思い奥歯を噛むが、抵抗を封じられたまま爪と舌で胸を執拗に刺激されるうちに不思議と下半身に血液が集まりはじめた。

「や……嫌だって」

 まただ。また、自分が自分でなくなってしまう感覚。一枚一枚殻を剥がされて、その内側にある見たくない自分があらわにされていく。もはや口に手を当てただけでは吐息は押さえきれない。下腹部のあたりもどうしようもなくむずむずと切なく、腕の自由が利かない中で栄は両腿を擦り合わせてその場をしのごうとした。

「ほら、やっぱり君は覚えがいい」

 左右の乳首を同時に爪の先で弾かれると、もはや声すら堪えることすら難しい。

「んっ……ああっ」

 こらえきれず漏れ出た喘ぎ声に満足げに笑うと、羽多野は栄の首の後ろに腕を回して上半身を助け起こした。胸の上でわだかまった服越しに赤く染まった突起を見せつけられ、栄は羞恥でどうにかなりそうだった。

 力の抜けた栄の腕を持ち上げ、羽多野はまずチェスターコートを栄の体から取り去った。続いてカシミヤのセーターを脱がせ、シャツはいくつかのボタンを外したところで焦れたように上から引き抜いた。ひとりで着替えられない子どもでもないのにこんなことと思うが、押さえつけられていたせいで栄の両手はしびれて自由には動かない。

 上半身裸になった栄のこめかみに口付けながら、羽多野はしつこく胸に手を伸ばす。

「知ってる? たくさん弄ったらここ、大きくなるらしい」

「は!?」

 冗談にしても聞き捨てならない発言に栄が目を丸くすると、男はきゅっとそこをつまみ指の腹でこりこりと揉みしだいた。ようやく指が離れると栄の乳首はさっきよりもさらに赤くぷっくりと腫れて、普段のつつましさが嘘のように存在を主張していた。こんなこと何度も繰り返されたなら──。

「人前で水着になんてなれないようにしてやりたいよ、本当は」

 耳元に吹き込まれるのは強烈な独占欲。あからさまな言葉にどう返していいかわからず間抜けに目を瞬かせる栄に目を細め、羽多野はロングスリーブのTシャツを脱ぎ捨てた。

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