第70話

 ロンドンにいた頃はほぼ毎日走っていると言っていたが、裸になった羽多野の上半身はとてもそれだけとは思えぬほど引き締まっている。ここ数週間は運動もせずに酒を飲んでは寝てを繰り返す最低の状況だったにも関わらず。服を着た上からも肩や胸板の厚みなど薄々感じてはいたが、正直予想以上だ。

 性的な意味よりむしろ男としての対抗心や関心が湧いて栄が腹の感触を確かめようと手を伸ばすと、羽多野は照れくさそうに制止する。

「やめろよ。俺はおっさんなんだから、多少腹がたるんでたって仕方ないだろ」

 いつだって傍若無人のくせに、自分が触られるときだけやめろなどと言われても耳を貸す気にはなれない。無視して腹にぺたぺたと触るが、見た目同様に特段たるんでいる様子はない。体型維持程度のゆるい目標で週に一、二度泳いでいる栄と比べれば、意識的に体を作っているのだろう。

「飲んじゃ寝の生活を送ってた割に言うほどでもないじゃないですか。これってランニングだけじゃないですよね?」

「どうしてそこでがっかりするんだよ……。確かに走る他に仕事やめてからは暇つぶしにジムにも通ってたけど。ロンドンじゃそれもできないから部屋で筋トレしてたかな。興味あるなら谷口くんも水泳やめてマシンに切り替えればいい」

 羽多野は急に対抗意識を燃やしはじめた栄に面食らったようだった。ともかくこの体が無職ゆえの潤沢な余暇があってのものだと知れば栄の溜飲も少しは下がる。さりげないトレーニングへのお誘いはあっさり首を振って断った。

「嫌ですよ。筋トレって効率悪いし、汗かいて気持ち悪い」

 見た目と健康を気にしているだけで栄は決して運動自体が好きなわけではない。好きでもないことに毎日こまめに時間を割くのは苦痛だし、ジムに通えば他人が使ったマシンを共用することになる。フォーム修正云々で筋肉自慢のインストラクターに体を触られるのは御免だ。剣道だってひどく汗をかくし蒸れるが、装束や防具で全身を覆うスポーツゆえに人と肌が触れ合うことがないのが栄に向いている。

 だが、あからさまにマシントレーニングをけなされたことに羽多野は不満そうだ。

「汗なんて言い出したら、プールこそ、どこの誰の体液が混ざってるかわかんないだろ」

 意地悪い口調で普段できるだけ考えないようにしていることを指摘されて鳥肌が立った。申し訳程度にタオルで拭うだけで使う都度消毒するわけでもないマシンよりは塩素の入っているプールの水の方がまだましだと自分に言い聞かせてはいるが、「体液」などという生々しい言葉を使われればぞっとする。

「そういうこと言うのやめてください。プールに行けなくなるじゃないですか」

「別に嫌がらせじゃない、君のダブルスタンダードを指摘してるだけだ。――まあ、谷口くんが人前で裸になるのやめるなら俺には願ったり叶ったりだが」

 やり取りは次第に睦言の色を増し、羽多野は栄のベルトに手をかける。もちろん上半身への愛撫ですでに前が張り詰めていることも気づかれている。

「やっぱり濡れやすいな」

 ボトムの前立てを開いて内側を確認してからそう笑われ、いたたまれない気持ちになる。そういえば今日はどんな下着を履いてきただろうかと女のようなことを考えて、ひとり気まずくなる。すりすりと下着の上から指で浮き上がる形をなぞられると、栄の腹はひくひくと震えることを我慢できなかった。

 やられっぱなしは悔しくて、苦し紛れに膝でスウェット越しに羽多野の股間を軽く押す。人のことを笑う男のそこも既に硬くなっているが、それを恥ずかしがるどころか羽多野は栄の手を取って自分の勃起に導く。

「え、あ……」

 羽多野はこれまでの行為で脱いだことがないから、栄はその下を見たことはない。もちろん繰り返されてきた行為は「羽多野による栄への奉仕」だったから何かをしてやったこともない。羽多野は我慢できない様子で下腹部を擦りつけてきてそのまま勝手に達することもあったが、栄がいくまで舐めたり触ったりひたすら奉仕して終わることもあった。おそらく後者の場合は栄がそそくさとシャワーを浴びるために部屋を後にしてから、ひとりで処理していたのだろう。後ろめたさはあったが、こちらから手助けを申し出るのもやぶ蛇のように思えたので何も言わなかった。

 布越しに膨らんでいる様子や、押し付けられるときに感じる硬さや熱さから「中」を想像したことは――正直、ある。だがいざこうして触れるよう促されると躊躇してしまう。

 近い距離で向き合って、羽多野は遠慮なしに栄の下着の中に手を入れた。まだ完全ではない勃起を揉んだり擦ったりして十分に育てたところで、先走りで重くなった下着のゴムを引き下ろす。

「んっ……あ」

 圧迫から解き放たれた性器を両手で包み込むように握られて、思わず小さな吐息がこぼれた。栄は反射的に羽多野の肩に頭を預け、表情を見られないようにした。

 何度も何度も触れられて、どこをどう触れれば栄が高まるのかは知り尽くされている。指で形作った円で濡れた茎をしごかれ、爪を立てないよう注意しながらそっと裏筋をたどられ、くびれた部分をくすぐられる頃には栄の口からはとめどない甘い吐息がこぼれていた。

「気持ちいい? 谷口くん」

「知らない……」

 そんな恥ずかしい質問に、はいともいいえとも答えられるはずがない。栄は唇を噛むが、返事をしないことへの意趣返しのつもりなのか、一番感じる先端をわざと避けての愛撫を続けられもどかしさは加速度的に上昇していく。自分だけが耐え切れず腰を揺らしてしまうことが悔しくて、栄はスウェット越しに羽多野の昂りを撫でた。

「……っ」

 密着した体が震え、かすれた吐息が耳をくすぐる。自分の手で羽多野が感じているのだと思うと、喜びとも戸惑いとも異なる不思議な感情が湧き上がった。

 ここで止めるのか進むのか迷いは一瞬、栄はおずおずとスウェット越しに「それ」を包み込み大きさと重さを確かめるように手を動かしてみる。羽多野の呼吸はみるみる荒くなり、栄の手の中のものも硬さを増した。

「谷口くん……」

 甘く濡れた囁きを耳朶に注ぎ込みながら羽多野は栄の先端に触れはじめる。知っている、手のひらで円を描くようにそこをぬるぬると刺激して、とろとろになったところで口を開きかけた亀裂をくすぐる。そうするといつも栄は我慢できなくなって――。

 絶頂を思い浮かべるとそれだけで射精欲が湧き上がり、気を逸らすため栄は羽多野の性器を撫でさすることに意識を集中した。やがて羽多野が栄の手を取り服の内側に導こうとする。思わず腕を引く動きをしてしまったのは覚悟ができていたわけではないから。他人の性器に直接触れることには抵抗がある。

「あ……っ、あの」

 喘ぎ声と控えめな抗議が混ざる。別に羽多野が汚いと思っているわけではない。ただ、自分はこういう人間なのだ。

 しかし交渉の間もなく羽多野は栄の手を強引に下着の中まで引き入れた。

「君も、触って……」

「……で、でも」

 意地が悪い。栄が潔癖気味だとわかっているのにゴムもつけずに直接こんな場所を触らせようとするなんて。一瞬指先をぎゅっと握りしめ接触を避けようとするが、奇妙な感触に栄は動きを止める。

「……」

 徹底的に抵抗するわけでもなく、かといって素直にそこに触れるわけでもなく、凍りついたように硬直した栄に羽多野も首を傾げて愛撫の手を止める。

「谷口くん?」

 聞かれて、栄は羽多野の肩に乗せたままだった頭を上げる。それから羽多野のスウェットのウエスト部分をぐっと前に引っ張って中をのぞき込んだ。

「どうしたんだ? 急に大胆な……」

「いや、そうじゃなくて」

 見間違いならいいが、そういうわけでもなさそうだ。怖いもの見たさで再びスウェットをつかむ手に力を入れて下にずらすと、目に入るのは紺色のビキニタイプのブリーフ。その中にある雄々しいものは、はみ出さんばかりに膨張していた。

 栄は今にも絶頂を求めるほど高められていたことも忘れ、目を丸くして羽多野の股間を凝視した。

「……羽多野さん、あなた何履いて……っ」

「え? 何って、何が? もしかしてこのパンツ?」

 ごく一般的な日本人男子から見ると普段使いには刺激の強すぎる下着を指して、羽多野はむしろ栄の反応を意外に感じているようだった。見せつけるように一度尻を上げ、膝あたりまでスウェットを下ろす。

「そんなに堂々と脱がないでください。目のやり場に困ります」

「は? 別にノーパンで生活してるわけでもあるまいし」

 自信たっぷりに言われると自分がおかしいのかと思いそうになる。いや、多分おかしくはない。――きっと、どちらも。

「えっと、多分これは羽多野さんと俺の文明が衝突を起こしているだけで……」

 日常使いするには刺激の強すぎるビキニブリーフも、布の面積が極めて狭いにも関わらずはみ出していないアンダーヘアも、何もかもが栄の文化とは異なるものだった。

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