3. 新しい務め

 数日後、セスはスイの部屋に呼ばれた。

 初めて狩りに参加した晩以来、二度目を誘う声がかかっていないことから何となく用件は想像できた。いくらスイが弟に対して寛容であるとはいえ、病気がちな父の後を継いで近い未来におさとなる立場としては集落の若者たちから身内びいきで反感を買うことは避けたいに違いない。そしてあの日セスとともに狩りに出た面々は誰もが、勝手な行動で仲間からはぐれたセスへの不満を訴えただろう。

 憂鬱な気持ちでセスが部屋に入ると、兄は隣に座るよう促した。普通ならば成人した兄弟が話し合うときにはもう少し距離を置いて向かい合うものなのだろうが、セスは筆談でしか意思疎通ができないから自然と隣に寄り添うことになる。

「セス、実はおまえに任せたい仕事があるんだ」

 兄はためらいがちに口を開いた。やっぱりきたか、とセスは思う。

 優しい兄は、単刀直入にセスに狩りからの排除を切り出してがっかりさせるのが不憫で、代わりに哀れな弟へあてがう仕事を探してきたのだろう。誰にも迷惑をかけないが、セスにはそれなりに集落に貢献しているという満足を与えるような仕事。しかし、そんな都合のいい仕事があるのだろうか。疑い半分にセスは訊ねる。

 ——狩りに行く代わりに、その仕事をやれと?

 兄だって、セスが思惑に気づかないほど鈍いとは思っていなかっただろう。わかってはいても単刀直入に問われれば、正直なスイは体裁の悪い表情を隠しきれない。その顔を見ればわがままを言うのも申し訳ないのだが、セスとしても整理のつけがたい気持ちをぶつける先は兄の他にいないのだから仕方ない。

 スイは視線を泳がせながら、弟の機嫌をこれ以上損ねない方法を必死に探っているようだった。

「狩りは……そうだな、またいずれ時期がくれば行ってもらうさ。それよりも、どうしてもおまえに任せたい仕事ができたんだ。この集落のために大事な仕事だ」

 ——それは、どんな仕事?

 布切れで黒い石板をぬぐっては新しい文字を書く。子どもの時から繰り返してきたことだからすっかり手慣れて、セスはおそらくこの集落では一番文字を書くのが速いはずだ。指先は石灰で白く汚れかさかさに乾いていつも痛々しくひび割れているが、そんなことは気にしない。自分の意志を他人に伝えることができる喜びに比べれば指の痛みなどささいなことだ。

 汚れた手で石灰石を握りしめセスは兄の答えを待つ。セスが喜ぶような仕事であるならば言いよどむ必要はないのに、スイは少しためらってから口を開いた。

「この間の狩りで見つけたあの男が神の使いと認定されたんだ。だから、身の回りの世話をする人間が必要だ。これから一年のあいだ、彼を丁寧に扱って我々が山の神をどれだけ大切に思っているかを理解してもらわなければならない。その結果に、先五年間の集落の安寧がかかっている」

 それを聞いて、セスの心臓は飛び跳ねる。

 褐色の肌の男。月明かりの中で涙を流していた男。あの晩からずっとどうなったのか気になっていたが、居場所も教えてもらえないままでいた。あの彼が本当に山の神の使いで、その世話役としてセスが選ばれたというのだ。

「使いの世話は下手な人間に任せることはできない。妙なことをすれば後で神の怒りとなって集落に降りかかってくるんだから責任は重大だ。だから代々使いの世話は長の家系で担当していて、おまえは未成年だったから黙っていたが……五年前に、前回の神の使いの世話役を務めたのは俺だ」

 そう言われて、セスは前回の祭りの前のことを思い出してみる。はっきりと意識していたわけではないが、あの時期スイは頻繁にどこかへ消えて、行き先を訊ねても決して教えてはくれなかった。あれは山の神の使いの世話に出かけていたというのだろうか。そして、スイがやったのと同じ名誉ある仕事を、セスも任せてもらえるというのだろうか。

 ——世話って、何をすれば?

 セスの表情がたちまちに明るくなったのを見て、兄はほっとしたようだった。

 これから一年間、神の使いは特別にしつらえられた部屋でもてなされる。世話役の仕事といっても特に難しいものではなく、そこに食事や酒を運び、体を清める手伝いをして、使いが暑いと言えば扇いでやり、寒いと言えば火をおこしてやり、ただただ使いの生活上の欲求を満たしてやるだけなのだという。

 ただし、一年のあいだ使いの姿を集落の他の誰にも見せてはいけない。何も知らない子どもや、興味本位の不届き者が使いの部屋に入らないよう注意をすることもまた、世話役の仕事であるのだ。

「狩りに行くこと以上に大事な役目だ。誇っていい」

 そう言って励ますように肩を叩かれ、セスはこくりとうなずいた。

 狩りの仲間にのけ者にされることは寂しいが、新しい役割は心躍るものだった。優秀な兄も務めた責任ある仕事を任されるというのももちろんだが、あの褐色の男にまた会えるのだと思うとなぜだか嬉しい気持ちになる。

 セスが口をきけないと気づいたときに驚きはしたものの侮蔑的な表情を見せなかったのは、あの男が神の使いだったからなのだろうか。カイたちに武器を向けられて目立った抵抗もせず言われるがままになったのも、彼が神の使いだからだったのだろうか。きいてみたいことはたくさんあった。

 スイはすぐにセスを神の使いの部屋に案内すると言い出し、ちょうど夕食どきが近いからと、炊事場に食事の載った盆と酒の入った革袋を取りに行くよう申しつけた。川でとったばかりの魚を一匹丸ごと焼いたものに、山羊の乳を発酵させて作ったチーズなど、長の家の人間すらめったに食べられないような豪華な食事にセスは内心驚いた。

 おさの屋敷の裏から藪を抜けた先に、使いのための小屋がしつらえられているらしい。屋敷を出ると、どこかから賑やかな声が聞こえてくる。男たちのはやし立てるような声──セスがちらりと振り向くと、スイが言った。

「あの騒ぎが気になるか? カイがハミヤと結ばれるんだ。あいつは今回、使いを迎えるに当たって手柄を上げたからな」

 集落で一番の美人だと評判のハミヤにカイが求愛しているのは誰もが知っていたことだ。プライドの高いハミヤは相手を決めかねて、これまでは思わせぶりな態度を取りながらもカイをうまくあしらっていたが、カイはあの褐色の男を捕らえたことで「神の使いを迎えた英雄」になった。英雄相手となればハミヤの態度も軟化するのだろう。

 集落の若者は男女問わず比較的自由に体の関係を結ぶ。そのため特定の相手がいることを知らしめたい場合は、集落の成人の男たちの前でちぎるところを見せて自分たちが特別な関係であることを示す必要がある。そうすれば彼らは集落公認の関係となり、他の誰も横から手を出せなくなるのだ。だからカイは今夜、人々の前でハミヤが自分の女だと示そうとしている。

「あとでおまえも見に行くか?」

 セスは左右に首を振る。若者の契りの儀式は集落内の娯楽としても消費されているが、セスはそんな儀式に関心はない。他人が息を荒げて絡み合うところを見て何が楽しいのか理解できないのだ。

「そうか。でも、おまえもそのうち相手を見つけないとなあ」

 スイの呑気な言葉にセスはうつむいた。いくらおさの息子だといっても、白痴と噂される自分の相手をしてくれる相手がこの集落にいるはずない。そんなこと兄だって知っているはずなのに……少しだけ惨めな気持ちに襲われた。

 気まずい雰囲気の中黙ったまま歩いていると、小さな小屋が見えてきた。集落やその周りの森のことはよく知っているはずなのに、セスは今までここに建物があることをまったく知らなかった。まさか神の使いの部屋だから、魔法か何かで見えなくされていたのではないかと思ってしまうほどだった。

「さあセス、あの中に使いはいる。食事を渡して酌をとれ。食事が終われば、空いた食器を持って帰ってこい。今日すべきことは、それだけだ」

 とん、と兄がセスの背を押した。もう「一年間」ははじまっていて、だから集落の人間はセス以外誰一人として神の使いに姿を見せることはできない。それが決まりなのだ。

 セスは緊張の中一歩一歩進み、入り口にある小さな台に一度食事の盆を置いてから扉を何度か拳で叩いた。本当ならば声をかけるところなのだろうが、セスは声が出せない。「入って良いか」と訊ねたつもりだったがまるで反応がないので、しばらく迷ってから扉を開いた。

 そこは座敷牢のような部屋だった。

 こぎれいではあるが小さく味気ない部屋の隅に、力なく目を閉じて褐色の男が座っていた。あの日着ていた汚れた服を身につけたまま裸足の足首には頑丈な足輪がつけられ、鎖の先は部屋の隅にある鉄柱にしっかりと繋がれて一定以上の距離は動けないようにされている。

 ——そんな。

 もしセスに声が出せたならば、そう叫んだだろう。「神の使いをもてなす」というのは、こんな座敷牢のような場所に足枷あしかせをつけて閉じこめるということなのだろうか。それが本当に信仰の証といえるのだろうか。それともこれは、何かの間違いなのだろうか。

 驚いて立ちすくむセスに気づいたのか、褐色の男が目を開きぎろりと睨みつけた。あの日涙で潤んでいた瞳とは別人のような鋭い眼差しにセスは恐怖で震えそうになる。

 怒っている。神の使いはこんなひどいもてなしをされて、きっとひどく怒っている。

「……おまえも、神だなんだとわけのわからないことを言いに来たのか?」

 低い声で男は言った。セスはどう答えたらいいのかわからず、とりあえず持ってきた盆を男の目の前に置いた。恐怖のあまりがたがたと震える手で杯に酒を注ぐ。男はそこでセスの顔を見て、それが月明かりの下最初に自分を見つけた人間だということをようやく思い出したようだった。

「ああ、おまえ、あのときの口がきけない奴か。くそ、理由を問い詰めようとしたところで話せない奴をよこすことにしたってわけか」

 セスは、口がきけない自分が世話役になったことに対して男が失望しているのだと知り内心では深く傷ついた。結局神の使いも、他の集落の人々と同様に話せない人間のことを蔑んでいるのだろうか。

 ——あなたは、神の使いではないのですか? あなたの立場について、どんな説明を受けたのですか。

 それでも期待が捨てられないセスは首から石板をおろし、慌ててそう文字を書いて示した。男は何か誤解をしているのかもしれない。ちゃんと説明すればきっとわかってもらえる。しかし、男はちらりと石板に目をやっただけで、投げやりな様子で「何だよ、それ。わかんねえよ」と吐き捨てて脇に押しやった。

 神の使いともあろう者が、まさか字を読むことができないとは思ってもみなかった。セスはひどく落胆した。