「おい、セス」
神の使いの小屋から戻り屋敷に入ってきたセスを見つけたスイが駆け寄ってきた。セスが手にした盆をのぞきこみ、すべての器が空になっているのを確かめるとその顔に笑顔が浮かぶ。
「調子がいいみたいだな」
セスは首を大きく縦に振った。話したいことは他にもあるが、両手がふさがっているので筆談ができない。伝えたいことを伝えられずにもどかしげな表情を浮かべる弟の頭をぽんぽんと叩くとスイは言った。
「そう焦るな。仕事が上手くいっているならそれでいい。俺もこれから出かける用事があるから、話は後でゆっくり聞く」
将来の長の座を約束されているスイはいつも忙しそうにしている。少し前までのセスはそんな兄の姿をたくましくも寂しく感じていたところだが、最近ではそうでもない。
父は昼間は自室にこもって仕事をしているか集落の人々と会議をしているかのどちらかで、スイも留守にするとなればセスの行動を気にかける人間はここにいない。そして、誰もセスの行動を気にしないということは、頻繁に神の使いの小屋へ行ったところで不審がられはしないということだ。セスは自室に戻るとはさみを手にして再び屋敷の裏口を出た。
理由はわからないが、神の使いは祭りの日までは世話役以外の集落の人間との接触はおろか姿を見られてもいけないという決まりになっている。だから世話役は身元がしっかりして秘密を守れるような人間に限られ、結果として代々長の家の人間が務めているのだという。
長の屋敷の敷地は家の裏側に広がっていて、ちょっとした森や小川の先は具合のいいことに崖に囲まれている。要するに広大な裏庭に作った小屋に閉じ込めておきさえすれば、集落の他の人々はどれだけの好奇心を持っていたところで神の使いの姿を見に行くことはできない。
歩き慣れた小道を抜けるとすぐに小屋が見えてくる。扉を叩くのは三度、返事がないのはいつものことだが、最近ではセスはそれを「入室を拒否しない」という答えなのだと都合よく受け止めることにしている。
水浴びに連れていった日から男の態度は明らかに変わった。投げやりな様子は少しだけ和らぎ、出された食事をおとなしく食べるようになった。セスが話し相手にならないことはわかっているので口数は少ないが、必要な範囲で言葉も発する。この神の使いは水浴びがお気に召したようだ……それに気づいたセスは規則違反を承知の上で週に一、二度は彼を散歩と水浴びに連れて行くことを習慣にしている。
扉を開けて中に入ると、神の使い──褐色の男はいつもと同じ壁際に座って退屈そうにしている。セスの姿を見るとちらりと顔を上げ、次に手にしているはさみに視線を向けた。
「どうした、そんなもので俺の鎖は切れないだろう」
そう言われて動揺したセスの目は泳ぐ。慌てて自分の髪の毛の先をつまんで見せてから、次に男を指しつつはさみを持ち上げて見せた。
男の頭髪は肩下まで伸びていて、さすが神の使いというべきか艶のある黒い髪は伸びていてもたいそう美しくはあるのだが、その長さは普段の彼からすれば伸びすぎであるようだ。しょっちゅう鬱陶しそうに髪をかきあげる姿が気になっていたセスは今日、勇気を出してはさみを持ってきた。
「……冗談だ、真に受けるな」
あっさりそう返されて、恥ずかしさにセスの顔は赤く染まる。生まれてこのかたセスがまともに交流する相手はほぼ家族だけに限られていて、しかもその家族は全員が真面目な性格をしている。もちろん集落の他の住民からからかいを受けることはあるが、それらはどちらかといえば意地の悪い中傷に近いもので、要するにセスは冗談に慣れていない。
ただでさえ口がきけないつまらない世話人が、しかも冗談も通じないとなれば、彼はますます失望するばかりなのではないか。髪をさっぱりさせてやれば喜んでくれるのではないかと意気込んでいた自分が馬鹿のように思えてセスははさみを背に隠すと後ずさった。
気まずくて居心地が悪い。このまま帰ってしまおうか。だが、そんなことを考えていることすらまるで筒抜けであるかのように、男は唇の端をかすかに持ち上げて、言った。
「そんな顔することないだろう。ほら、髪を切りたいなら切ればいい」
いまだ一度も見たことのない笑顔にほんの少し似た表情で与えられた許しの言葉に、セスはゆっくりと男の近くに寄った。
彼に世話係として認められることは、集落の人々全員から認められるような喜びを与えてくれる。例えカイやその仲間がどれだけセスを白痴だと馬鹿にしようとも、一年経ってセスが完璧に神の使いの世話を成し遂げたことを知れば彼らの自分を見る目も変わるに違いない。そのためにもできるだけのことをしよう。セスはそう決めていた。とはいえ、男の艶やかな髪に触れて胸の奥がざわめくのは、ただの承認欲求の転移だけが原因とは思えない。この褐色の男はそばにいるだけでセスの心にさざ波を立てるが、それは彼が神の使いであるがゆえの不思議な力のせいなのだろう。
用心深く毛束を手に取りはさみを入れる。金属の刃が噛み合う音がして同時にはらはらと黒い髪が床に落ちる。神の使いの肉体の一部をこんな風に切り落としていいのだろうか……今になって不安が湧きあがるが、男が気持ちよさそうに身を任せてくるのでそのまま続けることにした。静かな部屋に、しゃきん、しゃきん、とはさみの音だけが響き、いつの間にかセスは緊張していたことを忘れ安らいだ気分になっていた。
髪を切り終わると次は足首の治療だ。包帯を外して確かめると、拘束用の足輪で擦れた傷はずいぶん良くなっているようだがまだ完治とは言えない。セスは今朝方摘んできた薬草を口にし丁寧に咀嚼する。その姿をじっと眺め、男が口を開いた。
「それにしても一体おまえたちは何なんだ。神だ何だと言ってここに連れてこられて閉じ込められているが、さっぱりわけがわからない。最初はたくさんの人間がいたのに、ここにやってくるのはおまえだけだし」
それを聞かれるのはセスにとっては一番辛いことだった。水浴びに連れて行くようになってから男は多少セスに気を許したのか、世話を受け入れる代わりに毎日のように自身の身柄に関する質問をしてくる。
どうして神の使いが自らわざわざそんなことを確認してくるのか、りかいできずにスイに相談したところあっさりと「試しているんだよ」という答えが返ってきた。
この山の民が本当に神の使いを見分けることができるかを試しているのだと。だから食事を拒んでみたり、なぜ囲われるのかを問いただしてみたり、ときには逃げようとすることすらある。しかしそこであっさりとあきらめてしまえば山の神の試練の前に失敗したことになる。だから世話役には強い意志の力も必要なのだ――兄がそう言い切ると、セスはもう何も言い返せない。
男の質問に動揺するのは心が弱いからで、そんなときセスは自分が言葉を発することができなくて良かったと思う。口がきけない限りはどれほど男の疑問に答えたくなったとしても叶わないからだ。
困った顔をして治療を続けるセスをしばらく青い瞳で見つめていた男は、やがてあきらめたようだ。
「口の堅さには折り紙つきだろうから、こういう役目におまえは最適だな。セス」
セスはびくりと震えて、思わず男の足首に包帯を巻く手を止めた。今、何と言った? 自分の名前が呼ばれたような気がしたが、まさかそんなわけない。なぜならセスは一度だって男に名乗ったことはない。いや、それとも神の使いだから人の名前くらい聞かなくても察してしまうのか?
だが、セスが驚いた表情を見せたことは男にとって意外だったらしい。
「違ったか? あの晩、仲間の奴らがそう呼んでいたから、おまえの名前だと思ったんだが」
そう言われて思い起こせば、なるほど男を見つけた晩、断崖にやってきたカイたちはセスの名前を呼んでいた。神通力でもなんでもなく男が自分の名前を知っていたところで不思議はないわけだ。セスは首を振って、男が口にした名前に間違いがないことを伝えた。
驚きが去ると、じんわりと湧きあがるのは喜びだ。まるで存在しないかのように扱われた最初の頃。ぞんざいな態度ではあるが世話を受け入れてもらえるようになり、そして名前を呼んでもらえた。やっと自分が神の使いから一人の人間として認められたような気がした。
そして、ふと思う。この男には名前があるのだろうか?
神の使いだから名前なんて俗っぽいものは持たないのかもしれない。でも、彼が自分を「セス」と呼ぶのだから、自分も彼の呼び名が知りたい。もちろん聞いたところでセスはその名を口にすることはできないし、文字にしたためたところで逆に彼は読むことができないのだが。
包帯を結び終えると、セスは男に向かって姿勢を正した。自分の胸を指で示し、「セ」「ス」の順番に口の形を作ってみせる。それから男の胸に人差し指の先を当てた。
――あなたは誰ですか。僕はあなたを何と呼べばいい?
気持ちは伝わったようで、少し戸惑いを見せてから男は言った。
「俺か? 俺の名は、クシュナン」
クシュナン――決して口に出して呼ぶことはできない名前を、それでも知ることができて嬉しかった。思わず頰を緩めるセスを、男は珍しいものを見るかのようにまじまじと眺めた。
「知ったところで、呼べやしないだろう」
わかっている。そんなこと言われなくたってわかっている。それでも胸に湧き上がる喜びを抑えることはできない。この、褐色の肌に青い目を持つ気難しい神の使いの名は、クシュナン。この集落の人間はきっと誰も知らないはずだ。カイはもちろん、父も、兄も。
セスは彼の名前を自分だけの宝物にすることにした。