男は疲れたように頭を壁にもたせかけると再び目を閉じた。まるで意思の疎通ができないセスなどそこに存在していないかのように――その発想はひどく悲しいものだが、心情は理解できる。
彼は最初に断崖で見つけたときと比べていくらかやつれたように見える。ここに来てから数日、セスが世話役に指名されるまでの間、他の誰かからちゃんと食事は与えられていたのだろうか。そんな疑念が湧いてくればどうにも心配でたまらなくなる。勇気を出してそっと男の肩を叩き、セスは豪華な料理が載った盆を指し示した。
弱っているように見える神の使いにしっかり食べて元気になってもらいたい気持ちが半分。決して食べ物があり余っているわけではない集落で一番良い食材を差し出しているのだから無駄にしてしまっては人々に申し訳ないという気持ちが半分。しかし、男は料理にも酒にも頑なに手をつけようとしない。
「おまえが食えばいい」
そう言い放つと目を閉じて再度自分の世界にこもってしまった。さすがに無理やり口をこじ開けて食べさせるわけにもいかないので、結局セスは料理を挟んで男の前に数時間もの間ただ座っていた。そのうち空腹に負けた男が態度を軟化させるのではないかという期待は失望に変わり、やがて月が高く昇る頃に男が小さな寝息をたてていることに気づき、セスはようやくあきらめる気持ちになった。
セスは立ち上がり、料理が載った盆を手にして屋敷への道を引き返した。たかが食事を運ぶだけの任務すらきちんと果たせなかったことが情けなくて惨めだった。周囲に取り繕うためにこっそり料理だけ捨てて神の使いが残さず平らげたように装ってしまおうかと頭をよぎったが、そんな小細工はどうせばれてしまうだろう。
カイの契りの儀式もとっくに終わっているようで、ひたすらしんと静まりかえった中を歩く。家に着いてからは家族を起こさないようそっと歩いて炊事場へ行き、盆を置いた。
狩りに行っても邪魔だと疎まれ、新しく与えられた仕事も満足にこなせない。そして、家族はきっと表面上は優しくセスを慰めながら影でため息をつくのだろう。期待が大きかった分、さっそくのつまずきはセスの心を重くした。
その晩セスは日が昇るまでひたすら寝返りを繰り返し、神の使いのことを考えていた。出会ったときに見た涙に濡れた瞳や、敵意のない打ち解けた態度はすっかり消え失せてしまった。今夜の彼からは怒りと落胆しか伝わってこなかった。勝手に親近感を抱いて、彼の近くに行けることを楽しみにした自分が馬鹿みたいだ。
それから一週間、セスは同じことを繰り返した。日に二度、精一杯の贅
《ぜい》を尽くした食事と酒を運ぶが、男は一切口をつけようとしない。部屋に置いている水瓶の水がわずかに減っているところから見れば、水くらいは飲んでいるようだが、セスが美しいと思ったしなやかな筋肉は栄養不足ですでに枯れはじめている。汚れが浮いてきた髪の毛や体に触れようとすると野生の獣のように激しい抵抗を見せるので、セスは彼の体を清めることすらできない。
ぞんぶんに食べさせ飲ませること。清潔と快適を保つこと。神の使いを迎えるにあたって集落に求められることの何一つ満たすことができていない。精一杯差し出しているものを断り完全に心を閉ざしている男が神の使いであるようには思えず、セスはとうとう兄に弱音を吐いた。
──あの人は本当に神の使いなの?
セスは、胸にうずまく不安そのままに普段より小さい文字で記す。黙ってはいてもセスの悩みに気づいていたのだろう、スイは小さなため息を吐いてから労わるようにセスの頭をぽんぽんと叩いた。
「皆で見極めた結果だ、間違いないよ。心配するな」
小さい頃からセスが悩んだり落ち込んだりしているとスイはこうやって慰めてくれた。その記憶があまりに鮮烈であるからか、いい大人になってもセスはスイの手の感触を髪に感じると心が穏やかになる。しかし、今は優しい手と「心配ない」という言葉だけではセスの心のもやもやは解消しない。
──だったら、どうして何もかも拒否するんだろう。食事も酒も、体を清めることすら拒んで、一週間のあいだに彼は痩せて汚れてしまった。僕のような話せない者が世話役でいるのも不満みたいだ。
「そう思い詰めなくたって、神の使いにはよくあることだ。最初はそうやって、俺たちを試すんだよ」
スイは、自分だって最初のうちは上手くいかなかったから、もう少しだけ待ってみようとセスを説得した。完全にその言葉を信じたわけではないが、兄にそう言われればセスはうなずくしかない。集落の人間がどれだけ真剣に神の使いに尽くそうとしているかを試すために、一定期間つれない態度をとる。それは本当なのだろうか。時間が経てば褐色の男はセスに心を開いてくれるのだろうか。
翌日、相変わらず男は食事を摂ろうとしない。黙って座っている男の前でセスもじっと数時間待つ。それは一日二度、規則正しく繰り返される恒例行事のようになっていた。そんな中、手持ちぶさたに視線をさまよわせていたセスはふと男の足首が赤く剥けていることに気づく。
彼の足首には部屋から出られないよう金属の足輪がつけられているから、こすれた場所が傷になったのだろう。痛々しく血のにじむ傷を目の当たりにしてセスは愕然とした。こんなになるまで気づかなかったなんて、世話役としては失格だ。体が汚れているせいもあるのか、傷は少し膿みかかっているようにも見えた。
きれいにして、治療をしなければ。そんな思いに駆られてそっと手を伸ばすと、セスの動く気配を敏感に察した男は素早く逃げを打つ。その拍子に皮膚の剥けた箇所が足輪に触れて痛みが走ったのか、男は小さなうめき声を上げて顔をしかめた。
……どうしよう、セスは焦った。触れようとすれば拒むし、投げやりな態度を見る限り自身で傷をどうにかしようという気はさらさらなさそうだ。一体どうすれば彼の傷を治療することが許されるのだろう。
思いついたのはまるで賭けのような方法だった。褐色の男の足を縛める足輪は太くはないがしっかりした鎖につながっていて、その鎖の先は部屋の隅に食いこんだ鉄の柱に丈夫な南京錠で留められていた。――そして、その南京錠の鍵は絶対に使わないという約束でセスに預けられている。
これを使うことは、集落を、兄を裏切ることになるだろうか。しかし、神の使いを正しくもてなすことが何より重要であるならば、薄汚れて傷ついた男をこのままにしておくことはできない。セスは思い切って鉄柱に歩み寄ると南京錠を外した。
男は信じられないような表情でセスを見た。
「……何をやっている?」
セスは窓の外を指して、体を洗うジェスチャーをして見せた。狭い部屋の中で体を拭われるのは嫌でも、新鮮な水に浸かれば気分も変わるかもしれない。ここから少し山深いところに集落の人々は使わない小さな滝と滝壺があるから、そこに連れて行けば人知れず男は水浴びができるだろう。
しかし立ち上がった男は喜ぶどころか不審な表情でセスの顔をのぞきこんだ。
「俺を逃がせばおまえはひどい目に遭うんだろう? だが、外に出せばきっと俺は逃げるぞ。そんなこともわからず鍵を外すなんて、おまえは仲間たちに呼ばれていたとおりの白痴なのか?」
良かれと思った提案で愚か者と呼ばれた。男の言葉は無性に悲しいが、集落の男として人前で泣くわけにはいかない。感情をこらえた結果奇妙にゆがんだセスの表情を見て、男は侮蔑的な言葉を使ったことを後悔したのか、一言「悪かった」とつぶやいた。
白痴ではないと反論する代わりに、セスは鎖の片側を自らの首に巻きつけて外れないように南京錠で留めた。こうすれば仮に男が逃げようとした場合、必ずセスも巻き添えになる。厄介な「白痴」を道連れにしてまでわざわざ男が逃げようとするとは考えられない。
意外にも男は素直に外に出た。傷のある左脚を邪魔な鎖に引っ張られ、ぎこちない歩き方でセスについてきた。草の香りをかぎ、虫や鳥を眺めるうちにその目が生気を取り戻していくのがわかって、セスはそれだけで満たされた。
やがて着いた滝壺で、男はしばし悩んでから水に入った。セスは水辺に座っているから男は鎖の長さの範囲のごく浅い場所しか動けない。それでも冷たい水に体を浸せば気持ちよさそうに目を細め、迷いなく服を脱いでその布で体をこする。やや痩せはしたもののたくましい肩から背中へのラインや硬そうな尻に妙に胸の奥が騒ぎ、セスは慌てて顔をうつむけた。
男は体を洗い終わると濡れたままの服を身につけて陸に上がってきた。ぴったりと布地が肌に張り付き、あらわになった体のラインは先ほど目にした裸とはまた別の意味でセスを動揺させた。
「……帰るんだろう」
男はそう訊ね、セスはうなずく。
スイは、山の神の使いがもてなしを拒むのは、集落の人々を試しているだけなのだと言った。しかし目の前の男はとてもセスを試しているようには見えない。心から今自身の置かれた状況に戸惑っているように見える――そんな風に感じてしまうのはセスが未熟だからなのだろうか。
帰り道、傷に効く薬草を摘むセスを男は不思議そうに見つめていた。
部屋に戻ると、セスは草を口に含んだ。噛みしめると苦い味で口がいっぱいになるが、この薬草は唾液と混ざることで消毒の効果が強くなる。しばらく咀嚼して柔らかくなった草を口から出して、おそるおそる男の傷口に塗るが、今度は拒まれなかった。
赤く剥けた生々しい傷口にたっぷりの薬草を塗ってから、セスは腰に巻いてあった布を外し包帯代わりに男の足首に巻きつけた。男はその間もじっとされるがままになっていた。
その夜、男ははじめてセスが運んだ食事に手をつけた。