6. 雨のあと

 男は目を覚ました。頭上には月や星が輝いていて、視界の隅ではちらほらと火が燃えている。まだ目覚めには早すぎる時刻だ。落ち葉が朽ちてできた柔らかい土の上で男は毛布を被って横たわっている。そして腕の中には温もりがある。

「ん……」

 腕の中の少年が身じろぎをして小さなうめき声を上げたので、男は慌てて動きを止める。長い間ひとりきりで生きてきた男はまだ自分以外の体温を感じながら眠ることに慣れず、違和感のせいでこうしてときどき夜中に目を覚ましてしまうのだ。

「……起きているの?」

 男のささやかな努力もむなしく少年は目を覚ましてしまい、毛布からもぞもぞと顔を出して話しかけてきた。焚き火の赤い炎が少年の目の中でちらちらと揺れるのが幻のように美しい。

「悪い、起こしたか」

「ううん平気。それよりさ、僕、面白い夢をみたんだよ」

 少年は男のよどんだ灰色の瞳をのぞきこむと面白そうにくすくすと笑った。出会った頃の彼はいつも窮屈そうな様子で不安に怯えていたが、今ではずいぶんと明るくなった。おそらくは王の重圧が彼を押し込めていただけで、のびのびとしたこちらが少年本来の性格なのだろう。

「夢? どんな?」

「君がまた獣になっちゃう夢。あの大きいしっぽが僕の顔を撫でているんだ。きっと、これのせいだね」

 少年はそう言って寄り添い眠るふたりの体を覆っている毛布の端を握りしめた。今日手に入れたばかりの新しく良質な毛布はまだ毛がふわふわと立っていて、この肌触りが獣のふさふさとした尾を思い出させたのだと言われれば納得がいくような気もする。

「残念だったな。目を覚まさないままの方が良かったんじゃないのか」

 男はそう言いながら腕の中の少年の柔らかい髪を指でく。王宮にいるときは透き通るような銀色だった彼の髪は野外での暮らしで日に焼けたせいか今ではほんのり金色がかっている。心なしか身長も伸びたような気がするが成長期であることを考えると、それも当然のことだ。いずれにせよこの少年はこの世のどんな宝石より美しい――男はそう信じている。

 少年は卑屈な冗談を口にした男の首に腕を回すと、黒く硬い手触りの短い髪をぐしゃぐしゃと手でかき混ぜながら満足そうな顔を見せる。彼は男の髪に触れることが好きで、それは獣の姿をしていた頃の男を思い出すからなのだという。だから少年が髪に触れてくるたびに男は少しだけ過去の自分――醜く凶暴な姿をした獣に嫉妬してしまうのだ。

 もちろんそんな低俗な感情だって、察しの良い彼には気づかれているのだろう。

「僕はどっちだっていいんだよ。どっちの君も同じだもの。確かにあのふわふわのしっぽがないのは残念だけど、人間の君とはこうやって話ができるからね」

 そう言って少年は男の胸に顔を埋める。頼りない温もりにはまだ慣れないし、細い少年の体を抱き締めているうちにひょっとして壊してしまいはしないかとおそろしく思うこともある。それでも男は幸せだった。生まれてきてから一番今が幸せだと断言することができる。

 ――西の果てで村の人々に疎まれながら孤独に暮らしていた男は、ある日森の中で不思議な声から「王を殺せ」という天命を受け声と姿を奪われた。醜い獣の姿を与えられ、ただ人間の姿を取り戻すために王を殺そうと王都へ向かったはずだった。

 しかし、そこで出会ったのは男が思い描いていた傲慢で自信に満ちた王の姿とはまったく異なる、ひとりぼっちで頼りない【少年王】だった。寂しさと不安を抱えながらも醜い獣に優しくしてくれた彼に心奪われるのに時間はかからず、やがて男は何としてでも彼を囚われの運命から自由にしてやりたいと思うようになった。

 いまだに何が起こったのかは自分でもよくわかっていないが、とにかく男は【少年王】を呪いに満ちた王の座から解放することに成功し、彼を連れて王都から逃げた。人の姿に戻っても獣のときと同様に醜くて何ひとつ持たない男に、少年は相変わらず優しく信頼を寄せてくれる。

 二人は今、逃げている。

 王都から追っ手が放たれたと聞いたことはないものの、不安が消えることはない。衛兵たちが突然現れて【少年王】を取り戻そうとするのではないかと気が気でない男は、十五年間にわたって少年を捕らえ続けた国を離れてどこか遠く安全な場所に行きたくて、ひたすら王都と逆の方向へ向かっている。

 王宮の快適な生活に慣れた少年が野営続きの逃亡生活に嫌気がさすのではないかと不安に思っていたのは最初のうちだけで、彼はむしろ野山を飛び回る生活に違和感なく馴染んだ。焚き火を囲むことを面白がり、男が採ってきた木の実や、捕らえてきた動物をただ焼いただけのものを最上級のごちそうであるかのように食べる。そして、森の生活をよく知る男をきらきらした目で見つめては「君はすごいね」と感嘆の声をあげる。

 山を歩く生活には慣れてきたものの男の悩みは尽きなかった。本当はこんなひどい山道ではなく里の道を行った方が楽なことはわかっている。しかし少年の服装は王宮から逃げてきたときのままの薄く高級な布で、しかも逃亡の際に獣が流した血でひどく汚れていた。裸足の足には木の皮と蔓で間に合わせに作った靴を履かせていたが、当然それで十分なはずはなく、傷だらけになった白く華奢きゃしゃな足を見るたび男はふがいなさに情けない気持ちになった。

 人里に降りて身なりを整えてやりたい。しかしそもそも里に下りるには異様すぎる風態という自覚はあるし、着替えを手に入れようにも一枚の硬貨すら持ち合わせてはいない。

 そんな中、少年が山道を遠くから近づいてくる人影を見つけたのは今日の昼間のことだ。

「あれは何?」

「行商人じゃないか? 金があればましな服でも買ってやれるんだが、あいにく持ち合わせがない」

 大きな荷物を背負った姿を遠目に確認した男がそう答えるなり、制止する間もなく少年は人影の方へ走り出した。慌てて後を追うが子鹿のような少年は温室育ちの癖に案外足が速く、首根っこを捕まえる頃には行商人はすぐ目の前まで迫っていた。

「おじさん、服と靴を持っている?」

 突然現れた妙な格好をした少年に行商人は明らかに面食らっていた。気の違った子どもに声をかけられたとでも思ったのか、少年の質問には答えず先へ進もうとする。怪しい奴が山にいたなどと噂になったら追っ手がやってくるかもしれない。慌てて男は行商人に話しかけた。

「すみません、何でもないんです。気にしないでください」

「こっちも暇じゃないんだから、買う気もないのに話しかけられても困るよ」

 迷惑そうな行商人に男は謝罪の言葉を重ねようとするが、すかさず間に割って入った少年がすっと右手を差し出した。その手のひらには、王都を逃げるときに彼が身に付けていた小さな髪飾りが載せられていた。こんなものを見せればますます怪しまれるに決まっている――男は面食らうが、無邪気とはおそろしいもので少年は堂々と行商人に交渉し始めた。

「おじさん。僕たちお金はないけれど、これと引き替えに何か譲ってもらえない?」

 行商人は少年の手のひらで光を放つ髪留めを見て目を丸くした。

「これは……本物の金に、アメジストではないか。しかも上質の」

 望まざる展開にため息を吐く男のことは一切視界に入っていない様子で、行商人は慌てて背中の荷物を降ろして山の斜面に店を広げた。少年は目を輝かせて売り物を見定めはじめる。

「お兄さん、心配しなくたっていい」

 男の抱える不安を察したのか、耳元で行商人がささやく。

「蛇の道は蛇だ。あんたたちが一体どこの誰で、これをどこから手に入れたんだろうが気にしないよ。わしは国から国へ物を売り歩くだけのただの行商人。厄介ごとはごめんだ」

 訳ありなのは一見しただけでわかってしまう。今さら行商人の記憶を消すことが叶わない以上、あとはこの男の良心にすがるほかはない。

「……信じていいのか?」

 男の言葉に行商人はうなずく。

「この荷物と有り金すべて渡したってこの髪飾りほどの値打ちはない。わしにとっても得しかないさ。あんた方が欲しい物があれば持てるだけ何でも持っていけば良い。第一、あの子どもの格好ではこのまま山を歩いて行くのは厳しい」

 行商人にとってあの髪留めは大きな価値を持つのかもしれないが、今の男と少年にとって行商人の持つ商品はそれ以上に魅力的だ。簡素だが丈夫そうな服に山道でも足を傷つけずに歩けそうな靴。夜寝るときに寒さを防ぐことのできる毛布など、これからまだまだ続く旅路や少年の安全を思えば何としてでも手に入れたい。

 時間をかけて少年は衣服を選び、男は山を越えて旅をするのに必要なものを手にした。

「ありがとう、助かった」

「こちらこそ、こんな貴重なものを売ってもらえて嬉しいよ。私は塩の国から来た商人のメル。また機会があれば頼むよ」

 手を差し出してきた行商人に、男も右手を出し名乗る。

「俺はアイク。西の果てから来た」