セスはただうなだれて兄の部屋に座っていた。普段は弟に甘いスイも今日ばかりは渋い顔をしてセスを見つめている。
「……あの二人を、しばらくここに置くというのか」
その声色には明らかに不本意な響きが込められているが、セスはうなずくことしかできない。何しろあのアイクという大男は、おそらくは毒矢の当たりどころが悪かったせいで左脚に麻痺が出ている。しばらく静養すればきっと脚は元どおりに動くようにはなるだろうが、今あの状態のままで旅路に戻るのは危険だ。
「確かに、脚を痛めた原因はこちらにあるのかもしれないが……集落の人々からは反発もあるかもしれない」
兄は本来は公平で公正な人間だ。この集落の信仰と儀式のためだけに突然攻撃され捕らえられたことがアイクとリュシカにとってはひどく理不尽なことで、こちらの都合で負わせた怪我については責任を取らなければいけないという思い自体はセスと同じなのだろう。
だが、兄にはそれと同時に将来の長としての集落全体への責任が伴う。とりわけこの集落の命綱であるともいえる狩りを行う血気盛んな若者集団の管理や、山の神の使いに関する一連の対応は父の手を離れ兄に一任されている。スイはセスだけを見ているわけにはいかないのだ。
スイが人々の、中でもとりわけカイたち若者集団の反応を気にするのは当然のことだ。そして、その点についてはセスも大きな責任を感じていた。もともとリュシカたちを捕らえた理由は、クシュナンにあてがう相手が必要だったからで、その必要性を訴えたのは他の誰でもないセスだった。
ここのところクシュナンが妙にセスに触れたがること、そして水浴びのときの熱っぽい視線と昂ぶった体。それらにどう対応すればいいかわからないセスはただ単純に、彼が欲望を解放する相手を求めているのだと思い込んだのだ。だが――どうやら世間知らずなセスの見立ては見当違いだったらしい。
今日、セスはリュシカを連れてクシュナンの小屋を訪れた。そこでリュシカは、儚げな外見からは思いもよらない強い態度でクシュナンに接し、単刀直入に「褥をともにする相手が必要なのか」と問い正した。その質問を耳にした瞬間なぜだかセスは耳を塞ぎたくなり、小屋から走って逃げ出したいほどの恥ずかしさに襲われた。
クシュナンは軽く眉をひそめると、あからさまに不機嫌な表情でセスを見る。かつてここに連れてきた当初、まだセスに対して一切心を開いていなかった頃にはいつもあんな目で見つめてきていただろうか。いや、あの頃のクシュナンの瞳に燃えていたのは不安と不信感、そして今この青い瞳の中にあるのは――ふつふつと滾る怒り。
「セス、これはおまえの差し金なのか」
クシュナンは不機嫌を隠そうともしなかった。
「答えろ。おまえの考えで、俺の相手をさせるためにこの子どもをさらってきたのか」
さらに問い詰められ、決して大きな声ではないのにひどく叱責されているかのようにセスの背筋は震え、そもそも言葉など発することもできないにも関わらず喉がからからに乾く。
さっきまでのセスは、リュシカをここに連れてくることが怖かった。話し相手になることができ、しかも美しい少年を見てクシュナンは喜び心奪われてしまうのではないか。自分の存在が不要とされてしまうのではないか。そんなことばかり考えていたセスにとって今のクシュナンの反応はあまりに予想外なものだ。
セスがただ黙ってうつむいていると、クシュナンはもどかしげに首から下げた石板を指し示した。
「普段おまえは他の奴らとはその首から下げている板を使って会話してるんだろう。その子どもは字が読めるんだろうな」
「子どもじゃない。名前がある、リュシカだ。ねえセス、言いたいことがあるなら僕がこの人に伝えるよ」
リュシカはクシュナンのきつい態度に多少の反発を感じているようだが、それでも筆談の仲介を買って出た。リュシカ自身もここに連れてこられることになった具体的な経緯には興味があるのかもしれない。
これまでセスは自分にとって都合の悪い何もかもに口をつぐんでやり過ごしてきたが、二人から視線を向けられて今日は逃げ切れそうにもなかった。セスは首から下ろした石版に、白く汚れた指でのろのろと文字を記しはじめた。
「……最近君の様子がおかしかったから、きっとそういうことなんだろうと思って兄に相談した」
リュシカがセスの答えを読み上げ、クシュナンは黙ってそれを聞く。
「だから……僕の考えでリュシカをここに連れてきたと言われても、それは間違いじゃない。もしも僕の勘違いだったなら謝るけど、でも――」
だったらなぜあんな行動を取ったのか、という疑問は心に留めた。クシュナンはついさっき彼自身が神の使いなのだということをはっきりと言葉にして認めた。もしかしたら最近の奇妙な様子も、セスの彼への献身を試していただけだったのかもしれない。直接彼に行動の真意を訊ねることは無礼であるように思えた。
手を止めたセスに向かってリュシカが言う。
「セス、この人が欲しがっているのはそういうものじゃないと思うよ。もちろん、僕なんかじゃない」
その言葉は妙に自信に満ちていて、一体たった今出会ったばかりのおまえに神の使いの何がわかるのかとセスはリュシカに反感を抱く。だがクシュナンは、一方的に代弁された気持ちをため息と小さなうなずきで肯定した。
「ああ、そうだな」
本人にそう言われれば、勘違いを認めるしかない。セスはクシュナンとリュシカに謝罪した。思い違いで先走ってしまったことが恥ずかしかったが、クシュナンはそれ以上セスを問い詰めることも責めることもしなかった。ただ、拍子抜けしたような――どこか傷ついたような表情を見せ、それ以上言葉もなしに出て行く二人を見送った。
自身の早とちりでリュシカたちに迷惑をかけてしまったことが申し訳なくて消沈するセスを気遣い、帰りの道すがらリュシカは「気にしないでいい」と言ってくれたが、そのときはまだアイクが目を覚ます前だった。意識が戻ったアイクが脚を痛めていることを知ったリュシカは動揺し、セスを強い態度で叱責した。
セスはことの顛末を報告しアイクとリュシカのしばらくの逗留を許可してもらうため兄の元を訪れたが、案の定反応は芳しくない。
「その男の脚はどのくらいで治りそうなんだ。来月末には山の神の祭りを行う。神聖な祭りは集落の者だけで行わなければならないから、それまでには出て行ってもらうことになる」
――おそらくひと月もかからないかと。麻痺にきく薬草をすぐにでも探しに出かけます。
「何としてでも間に合わせろ。あと問題はカイたちだ。セスの勘違いに翻弄されたと知れば、あいつらはまたうるさいことを言い出すだろうからな」
兄が一番懸念しているのはその点なのだろう。カイとその仲間たちはセスをよく思っていないから、今回の勘違いをことさらに騒ぎ立てるだろう。それどころか父やスイのことも責めるかもしれない。だが、最終的にはやはり兄はセスの希望を通してくれた。
「まあいい、カイは俺が何とか説得する。ただ、役にも立たんよそ者をこの屋敷でもてなすのはやりすぎだ。空き家をどれかひとつ掃除させるから、しばらくそこに住ませろ。食事や怪我の治療は責任を取ってセス、おまえが面倒を見てやるんだ」
セスはうなずいた。とりあえずアイクとリュシカへの「脚が元どおりになるまで面倒をみる」という約束を破らずにすみそうなことが嬉しかった。
とにかく今は一日も早くアイクの脚を治して、リュシカとともにこの集落を出て行ってもらわなければ。それは彼ら二人への約束であると同時に兄への約束でもある。セスは兄の部屋を出ると、さっそく薬草を探しに出かけることにした。
ひとりで森を歩いているとようやく心が落ち着いてきた。ここ最近のセスはただでさえクシュナンに翻弄されっぱなしだったのに、昨日から今日にかけてはさらにいろいろなことが起きた。自分で思っている以上に気疲れしているのかもしれない。
薬草探しはセスにとっては慣れた仕事だ。湿布に使う大きな葉っぱや煎じて飲むための柔らかい草を見つけては摘みとる。そういえばクシュナンが集落にやってきた最初の頃は、足首の傷を癒すために毎日薬草を噛んで傷口に貼ってやっていた。傷はやがて治り、クシュナンも足首を戒められた状態での身のこなしに慣れたのか擦り傷を作ることはなくなった。……そんなことを考えているとクシュナンの顔が見たくなる。
怒っているような失望しているような、傷ついているような――さっき彼が浮かべていた表情を思い出せば少し気まずくもあるが、どうせ夕食を持って行くときにも顔は合わせることになる。
自分でも理由ははっきりとわからないが、クシュナンがリュシカのことを求めていないと知ってセスは安堵した。だが兄と話をする中で、胸の中には新しい嵐が起こりつつあった。
来月末には山の神の祭りを行う。スイはそう言った。そしてその祭りで、山の神の使いは神の元へ戻されることになっている。