いなくなってしまう。例えリュシカがクシュナンの心を奪おうが奪うまいが、もうしばらく経てばあの褐色の肌を持つ神の使いはこの集落への滞在を終え、山の神の元へ帰っていってしまうのだ。
その日が遠からずやってくることは知っていた。最初にスイに呼ばれたときから神の使いを集落でもてなす期間は「一年間」であると聞かされていたのだ。だが、それでもはっきりと期日を口にされるとセスの心は理由もわからないままかき乱される。
セスは寂しいという感覚を知っているが、これまでに感じたそれは、すべて家族かそれに準ずるものが対象だった。祖母が老衰で死んだとき誰もが大往生だと言って葬儀の晩は飲めや歌えやの大騒ぎだったが、セスは寂しくてひとりこっそり誰にも見られないよう泣いた。かわいがっていた飼い犬がある日いなくなり、狩りの最中に事故で死んだと聞かされたときも便所に隠れて泣いた。
クシュナンは家族ではないし、あの飼い犬ほど長い間一緒に過ごしたわけでもない。これまでの人生で感じたことのある寂しさと、今セスの胸にわだかまる感情は別のものなのだろうか。晴れない気持ちのままセスは薬草の束を抱え、アイクの治療に向かうことにした。
スイの指示で集落の隅にある小さな空き家は速やかに片付けられ、アイクとリュシカを案内する用意が整った。親が死に、娘が嫁にいったことで誰も住まなくなったそこはセスたちの暮らす屋敷に比べるとはるかに小さく質素ではあるが、束の間療養する程度であれば不便はないはずだ。
歩行もままならないアイクを、リュシカとセスが左右から支えて移動させる。リュシカは骨も筋肉もまだまだ大人にはほど遠い成長途中の少年で、セスだって規格外の大男であるアイクよりはずいぶんと小柄だから、人並み外れた大男であるアイクの手助けは楽ではない。
三者三様の姿をした男たちがひとかたまりになって、よろめきながら歩いて行くのをすれ違う人々は奇異なものを見る目で眺めた。もちろん誰一人として手伝いを申し出るどころか声すらかけてはこない。
彼らの反応をアイクとリュシカもおかしいと思っているかもしれない――セスが人々から蔑視されていることがに気づかれてしまうかもしれない。そう思うとひどく恥ずかしくて、うつむいて歩くセスはアイクの重みにつぶされていっそ消えてしまいたいと思った。
新しい住処に入り扉を閉めると二人の客人はようやくくつろいだ表情を見せた。大男と恐れを知らぬ少年……しかし彼らも見知らぬ人間に囲まれっぱなしで気が張っていたのだろう。
――最低限必要なものは運んであるけど、何か足りないものや困ったことがあれば、いつでも言って欲しい。
セスはそう石板に書き付けてリュシカに見せる。リュシカは「ありがとう」と笑顔を見せて、まずは脚の萎えた男が楽に横たわれるよう布団を敷きにかかった。
リュシカはとことんアイクに献身的で、しかし二人の親密さは友人とも兄弟とも異なっているように見える。一体どういう関係なのか内心では気になって仕方ないが、望まずここに連れてこられた二人にどこの誰で何をしようとしていたのか質問することは失礼であるように思えた。
「薬草を持ってきてくれたんだね、セス。それはどうやって使えばいいの?」
思いやりに満ちた仕草でアイクを布団に横たえると、リュシカはセスが腰紐に結び付けていた薬草の束に目をやって訊ねる。うっかり彼らの元に来た一番の目的を忘れそうになっていたセスはあわてて野草の束を手に取ると、治療に取りかかることにした。
草の種類は異なるが、この薬草の使い方もかつてクシュナンの足首の傷を治療したときと同じだ。濃い緑色の柔らかい葉を含むと口いっぱいに苦みが広がるが、セスは我慢してしばらく咀嚼し薬を唾液と混ぜ合わせる。アイクとリュシカはそんなセスをじっと観察するかのように見つめていた。
セスが十分に唾液と混ざった薬草を口から取り出してアイクの左脚に載せようとすると、リュシカが何か言いたげに手を伸ばし、すぐに引っ込める。何か問題でもあるのだろうか、とセスが手を止めて目で合図すると、リュシカは彼らしくない体裁の悪そうな表情を見せて顔の前で手を振った。
「ごめん何でもない。続けて」
言いたいことを我慢しているに違いないと思ったが、手を止めてわざわざ筆談で訊ねるのも億劫で、セスはリュシカを気にしながらも作業を続けた。
ほとんど軟膏のようになった薬草のペーストを薄く広げ、その上から原型のままの葉で覆って包帯で厳重に包む。そこまで終えたセスはこれで今日の治療は終了だと二人に伝えた。痺れによく効く薬草だからきっとすぐに効果が体感できるはずだと付け加えると、アイクとリュシカは顔を見合わせてほっとしたように息を吐いた。
だが、次は三日後に薬を取り替えに来ると付け加えたセスに、リュシカがおずおずと口を開き意外なことを言い出す。
「あの、セス。それは僕がやるんじゃだめなのかな。それともセスがやらなきゃ効果はない?」
その申し出を意外だと思わなかったのは、さっきのリュシカの表情を見ていたからだ。そこでようやくセスは、リュシカはセスやセスの唾液の混ざった薬草がアイクの体に触れるのを嫌がっているのだということに思い至ったのだ。
――構わないけど、この草はひどく苦い。
「大丈夫。苦くてもいいから、僕がやるよ!」
身を乗り出すようにして大声でそう返事をした少年は、彼の態度を少しだけ意外そうに見つめるアイクとセスに気づくと顔を赤くして声を低くした。
「いや、あの。セスもクシュナンの世話で忙しいのに煩わせてはいけないだろう。薬草だけ置いていってくれれば僕が……」
さっきのあれが原因だろうか。不安は夏の黒雲のようにあっという間にセスの心を覆う。同じ集落の人間に避けられさげすまれる口のきけない男に触れられ、あまつさえその体液を肌に塗りつけられるなど、耐えられないということなのだろうか。そう思えばセスの心は軋みはじめるが、痛みを自分の中だけに留めてリュシカにうなずいてみせた。
――山の神の祭りまでには君たちもきっと、旅路に戻ることができるだろう。
石板にそう素早く書き付けてリュシカに示す。こんな男に世話をされることはさぞ不快だろうが、それも長く続かないのだと伝えたかった。
――そして、再びセスは一人になる。クシュナンが神の元へ戻れば、誰の役にも立てず白痴扱いされる日々が戻ってくるだけだ。改めてそう考えるとひどく惨めな気分になり、素早く指先で書いたばかりの文字をぬぐうとセスは立ち上がり足早にその小屋を出た。
小屋を出たところで大きな人影に視界を遮られ、セスは立ち止まった。それはカイだった。アイクほどではないが、カイもこの集落の若者の中では体格に恵まれている方で、目の前に立ちふさがられれば逃げることも困難だ。
「おい、どういうことだ」
カイは低い声で凄み、セスは肩をすくめてうつむいた。恐ろしくてその顔を正面から見ることはできない。
ここにカイが来たということは、スイの命令でさらってきたリュシカがクシュナンの寝床の世話をする役に立たなかったことを知ってしまったのだろう。セスの発案で無駄な働きをさせられたことを知ったカイが怒り狂うであろうことは想像の範疇だったが、それでも恐怖で足がすくむ。
「おい、セス。おまえがスイに妙なことを進言するから、俺たちはわざわざ夜の森に出て行く羽目になったんだ。あんなでかい男に反撃されたらこっちだって怪我をしたかもしれない。危険を冒して狩りに行ってきたのに、何もかもおまえのでたらめだったらしいじゃないか」
カイはセスの胸元をつかみ、顔を寄せてきた。
「しかも、役にも立たない奴らを怪我が治るまでここに置くだと? ここにはよそ者を二人も養う余裕があるか? それともおまえら特権階級は、俺たちが日々苦労して食糧をやりくりしてることに興味はないとでも? まったく、スイはもっとまともな奴だと思っていたが、どんどん弟に甘くなる。もしかしたら白痴が移ったのかもしれんな」
恨みと罵りを直接的にぶつけられセスはぎゅっと唇を噛んだ。自分のことならともかく、兄のことを悪く言われるのは耐えがたい。しかしセスは反論する言葉を持たないし、腕力でカイに敵うはずはないのだ。
嵐が過ぎ去るのを待つようにただうつむいてじっとしているセスをしばらく睨んでから、カイはようやく解放する。そして、去り際に言った。
「覚えてろ。俺はおまえみたいな奴が大嫌いなんだ。いつか破滅させて、ここにいられなくしてやるからな」