14. 飲み込む言葉

 アイクとリュシカがしばらくこの集落に留まることに同意すると、セスはほっとした様子で部屋を出て行った。

「僕たちの返事をスイに伝えに行くんだって」

 リュシカはセスが石板に書いて伝えた内容をアイクに伝えた。セスの父はこの集落の長で、兄のスイがその後継者。アイクが眠っていたのはおさの屋敷の客間であるらしい。

 いくら無害そうな顔をしていたって、リュシカが気を許していたって――いや、だからこそアイクはセスのことが信用できなかった。セスの姿が消えるとアイクはすぐに左半身の状態を確かめにかかる。一応は彼らの厚意を受けることにしているが、内心ではこんな集落からは今すぐにでも飛び出してやりたいところだ。

 改めて左半身に意識を集中してみると、下半身、特に腿から下が痺れていて思うように動かない。とはいえ完全に感覚が失われているわけではなく、体のバランスに注意してゆっくりと体を動かせば何とか立ち上がることはできた。

 だが足元はおぼつかなく、その場から一歩踏み出そうとするだけで体がぐらりと傾ぐ。慣れれば遅い速度で歩くことは可能だろうが、こんな体でリュシカを守りながら山を降りるには相当の困難が伴うだろう。

「アイク、危ないから無理しない方が……」

 ままならない左脚を無理やり動かそうとするアイクに寄り添い、リュシカが不安そうに顔をのぞき込んでくる。しかし今のアイクはその優しさや心配を素直に受け入れる気分にはなれず、細い体をそっと押し返すと目おをそらしながら再び布団の上に座り込んだ。

「リュシカ、俺が気を失っている間に何があったんだ。神の使いとか相手を探してるとか穏やかな話じゃない。隠しごとはなしで、すべて話してくれ」

 アイクが真剣な顔でそう告げると、リュシカは気まずそうに目を伏せて口ごもった。

 窮屈な王宮を逃れてからのリュシカはいつも明るくはつらつとしていたが、今の不安げな表情はかつての、国のための生贄に近い存在だった《少年王》に戻ってしまったかのようだった。それだけでアイクは、リュシカはすでにここで何か良からぬものを見てしまったのだと気づく。

「リュシカ。別に俺は……怒っていないし、怒らないから」

 異様なほどに大きな体躯たいくに、美しくもなく、しかも愛嬌にも恵まれていないアイクだ。自分が仏頂面をしていればいくらリュシカでもその恐ろしげな姿に萎縮してしまうのかもしれないと思い、せめて声色だけでも優しくしようと努力した。

 リュシカはようやく少し気が楽になったようで、アイクに並んで腰をおろすと、ぽつぽつとこれまでの出来事について語りはじめた。

 この集落には山の神の使いが降臨しており、忠誠心の証として丁寧にもてなさなければいけない。期限は来月行われる山の神の祭りまで。そう聞いたアイクは「また神の話か」と嫌な感覚を抱いた。何しろ、かつてリュシカを王宮に縛り付けこの国で起こる厄災の全てをなすりつけていた人々も、彼を「王」であると同時に「神」であると言っていたのだ。

 この世には人間の手ではどうしようもないことも、不思議なことも山ほどある。例えばアイクは謎の声に導かれて獣に姿を変えリュシカを救うことになった。その過程ではささやかな魔法を使う老婆にも出会ったし、いざ火刑にかけられそうになっていたリュシカが救われた大雨や雷も何か大きな力によるものだったとしか思えない。だが、この集落で行われている儀式の話を聞いたアイクの頭に浮かんだのは神の姿ではなく、リュシカを閉じ込めていた宰相や筆頭賢者をはじめとする王都の人々の姿だった。ひどく嫌な予感がする。

「この集落の人たちにとっては五年に一度、丸々一年間かけて行う儀式のようなものらしいよ。彼らは神の使いを、この屋敷の裏手、とはいってもだいぶ離れた場所にある小屋に住まわせて食べ物と酒と……」

「欲望を満たすための相手までも与えるって? で、おまえが目をつけられたってわけなのか」

 問い詰めるような言い方をしたいわけではないのに、再びアイクの声は低くなる。

「うん、まあね」

 うなずいたところでリュシカは、暗い灰色の瞳の奥に潜む疑念に気づいたかのように慌てて強い口調で続けた。

「でもっ、さっきも言ったけど誤解だったんだ。僕はセスと一緒にその神の使い――クシュナンに会ってきた。でも彼は僕を求めたりしなかった。本当だよ」

 必死の弁明はアイクの心の半分を安心させ、残りの半分をさらにかき乱した。誤解だったなら何よりだ。だが、リュシカは自分を無理やり抱こうとしているかもしれない男がいる場所になぜひとりで出向いて行ったのか。

 結果的に無事だったから良かったが、もしそのクシュナンとやらが本気で欲望を燃やしていたならリュシカのか細い体は簡単に組み敷かれてしまったのではないか。いや、もしかしたらアイクを安心させるためにこんなことを言っているだけで、実は無理やり体を奪われていたりはしないだろうか。

 アイクは感覚の鈍い左腿に短い爪を立ててなんとか心を落ち着けようとした。しかしその腕が怒りと不安で震えていることはあからさまで、二人の間には気まずい沈黙が落ちる。

 わかっている。こんなことで心を乱している場合ではない。自分たちの置かれた状況を正しく把握して、信頼し合って協力して、この危険な場所からできるだけ早く抜け出す方法を相談すべきだ。しかし、どうしてもアイクの心は余計なことを考えてしまう。

 クシュナンとはどんな男だろうか。神の使いというからには美しいのだろうか。そもそもこの世の中の大抵の人間は自分よりは美しく賢く魅力的であるに決まっている。そんな相手に迫られればリュシカも嫌とは言えず、いや、もしかしたらむしろアイクに触れられるよりもよっぽど喜んで受け入れたりはしないだろうか。

 それでもアイクは必死に冷静になろうとした。何しろリュシカはアイクにとってただひとりの王で、何が起きても忠実に仕えると決めた相手なのだ。そのリュシカが大丈夫だったと言うのならば、疑うことなど決して許されない。

「……わかった。だから俺たちはもうここには不要で、俺の脚の問題さえなければすぐに出発できるって言うんだな」

 アイクの言う「わかった」が本心から出たものではないことはリュシカだってお見通しだろう。だがリュシカは特にその点に言及することなく黙ってうなずいた。だからアイクも、もやもやとした暗い気持ちが胸のあたりでわだかまりつつも、ひとまずは笑顔を見せてリュシカの柔らかい髪に触れた。

「できるだけ早く脚を治さないといけないな」

「うん。セスが後で薬草を持ってきてくれるって言ってた。きっとすぐに良くなるよ」

 その言葉に込められた優しさに嘘はない。しかしなぜこんなにも不安になるのだろう。リュシカの瞳が自分以外の誰かを映すところを見たくない、リュシカの唇が自分以外の人間の名前を口にするのを見たくない。

 苛立ちともどかしさに背中を押され、アイクはリュシカの体を抱き寄せた。耳の裏に、首筋に鼻を当てて、それこそ獣のような熱心さで匂いを嗅ぎながら、自分以外の誰かの匂いがそこについていないことを確かめる。

 白く薄い肌に触れるうち自然と腕や背筋が粟立ち、何かに追い立てられるような気持ちになったアイクは意図を持ってリュシカの服の裾から手を差し伸べる。首筋だけではまだ安心できない、その敏感な場所を目で指で確かめてほかの誰も侵入をしていないことを確かめたい。確かめなければ安心できない。

「リュシカ……」

 熱い息を吐き出しながら名前を呼ぶ。動きづらい左下肢のことなど構ってはいられない。浮き上がる鎖骨に舌を這わせながら滑らかな脇腹を無骨で分厚い手のひらでさする。

 リュシカが戸惑うのはわかった。しかし、普段と同じようにやや強引にでも行為を続ければ感じやすい少年はやがて甘い息を吐きはじめるのだとばかり思っていたし、深く触れ合えばこの心のよどみも消えてなくなるのだと思っていた。だが、今日のリュシカは違っていた。

「待ってアイク。ここでは……」

 柔らかい物腰で、しかし強い意志を持った動きで細い腕はアイクの胸を押し返す。熱を持て余したまま、拒絶されたアイクはただ呆然とするだけだ。

「リュシカ……」

「だってここはセスたちの家だから。いつ誰が入ってくるかわからない」

 それが本当に屋敷の人々を警戒したものなのか、考えたくはないが、神の使いとの接触を隠すためにあえてアイクを遠ざけているのか――わからないこそ不安は膨れ上がる。今この状況で無理やりリュシカを組み敷くこともできず、アイクは黙って布団に横たわるともやもやとした気持ちを抱えたままで目を閉じた。