女たちが鮮やかに染めた布を結び合わせて広場を華やかに見せるための飾りを作っているのを、セスは地面に座ってぼんやりと眺めていた。「よそ者」の契りの儀式の興奮が去り、集落が落ち着きを取り戻したかと思いきや人々は「山の神の祭り」の準備に夢中になっている。普段は乳を搾るため大事に飼っている山羊のうち一頭をこの日に潰すという話も聞いた。
祭りのことは知っている。広場を飾り立て歌い踊りごちそうを食べる、人々にとっては待ち望んだ晴れの日だ。セスも幼い頃は祭りの賑やかさにつられて何となくうきうきした気分になったものだが、周囲が自分をどのように見ているかを認識するようになると、人々が楽しそうにすればするほど疎外感が高まるようで、五年に一度の祭りの日はあえて森の中や自分の部屋にこもることが増えた。
祭りの最後には、一年間丁寧にもてなした「山の神の使い」が神の元へ帰る。しかしその神々しい場面を見ることが許されているのは成人した男だけだ。セスがたとえ祭りに興味を示していたとしても前回までは神の使いの去って行くところに立ち会うことは許されなかった。
そして今回は――成人したセスは、望みさえすればもう、他の男たちと同じように祭りを最後まで見届けることができるだろう。あの褐色の肌をした神の使いは、クシュナンはどのようにしてここを去って行くのだろうか。宙に浮かんで飛んでいくのか、光に包まれて消えていくのか。
その姿はきっととても美しいだろうが、セスにはとてもではないが正視することができないように思えた。いや、しかしどれだけ別れが辛くてもセスは彼の世話役として、最後まで見届けなければいけない。それが自分の義務だ。
「セス」
兄の声がした。
「祭りの準備は万事順調だ。おまえの仕事ももう少しで終わる。神の使いは帰り、あのよそ者たちも傷が癒えれば去って行く。そうすればまた、普段通りの生活に戻る」
それはまるで、クシュナンがここからいなくなり、アイクとリュシカも集落を去って行くことを喜ばしく思っているかのような口ぶりだった。セスはスイに同意することができず、そっと視線をそらす。
セスは地面の砂に指を触れ、そっと文字を書いた。
――今回は、最後まで祭りを見届けていいんだよね。
クシュナンがやってくる前の日々のことなど、もう思い出せない。あんなにも他の若者と一緒に狩りにでることに憧れていた気持ちも、嘘のように消え去っている。セスの心にいまあるのは、自分を理解しようとしてくれている、はじめての、たった一人の友人であるクシュナンがもうすぐいなくなってしまうこと。それだけだった。
だが、スイはセスが書いた文字を、いつもの温厚さからは思いもよらない激しい仕草でかき消すと、言った。
「だめだ。おまえは、祭りの最後には立ち会えない」
セスは驚いた。落ちこぼれではあるが自分はこの集落の成人男子。祭りの最後を見届ける資格はあるはずだ。しかも一年もの間、誰よりも一生懸命神の使いの世話をしてきた自負がある。なのになぜその自分が、彼の去って行く姿を見ることが許されないというのだろうか。
セスは素早く指を動かし疑問と反論を綴った。しかし書き終える前にスイの足が砂をかき混ぜてしまい、文字ははかなくも消え去る。いつもならば優しすぎるほど優しくどんなつまらない話にも付き合ってくれる兄が、一体なぜ。呆然とするセスに、スイは厳しい表情のまま吐き捨てた。
「これは、長の代理であり後継者である俺の命令だ。セス、おまえが祭りに最後まで参加することは許さない。それが世話役の定めだ」
スイは兄の顔ではなく「長の跡継ぎ」の顔をしていた。そしてそれ以上一切セスの反論を待たずきびすを返し、他の人々の作業の確認に回りはじめた。
彼がいなくなる場面を見たいわけではない。でも、それが自分の勤めだと思っていたし、その現場を見ないことにはクシュナンがここから去ってしまう事実を認めることができないのではないかと思った。だからセスとしては勇気を振り絞るつもりでいたのだ。しかし、自分には彼を見送ることすら許されないのだろうか。
「どうした、浮かない顔をして」
残された日々は少ないのだから、できるだけ明るく振る舞おうと決めているにも関わらず、セスが意気消沈している様子はクシュナンに伝わってしまったようだ。いや、神の使いだからこっちの気持ちなどお見通しなのかもしれない。
クシュナンは夕食を終え、杯を傾けている。セスはその隣で黙って座って、ときおりクシュナンの呼びかけに応じて手元の石版に返事を書き付けていた。
セスは正直な気持ちを書くか迷った。しかしクシュナンの青い瞳に射貫かれると、嘘をついても何もかもがばれてしまうような気がして、嘘をつく勇気はしぼんで消えた。
――祭りの日に、君が帰っていくところまで見届けたいと思っていた。でも、世話役は立ち会うことはできないと兄に言われた。だから……。
セスの白く汚れた指先はそこで動きを止める。だから、何なのだろう。自分は今、この男に何を伝えたいのだろう。
しばらく黙ってセスの指先を見守っていたクシュナンがそっと手を伸ばし、石灰石を握ったセスの手を包み込む。その手は温かい。
普段はクシュナンに触れられると緊張して、どうしたらいいかわからなくて落ち着かないのに、今日はなぜか彼の温かさがどうしようもなく心地よい。しかし心地よさはしだいに痛みに変わり、セスの胸はつぶれそうになる。
「どうした?」
近い場所から響いてくる声がくすぐったい。この温度も、声も、あとほんの少しで自分のそばからなくなってしまう。セスはうつむいて動けなくなる。
「……セス」
クシュナンが驚いたようにつぶやく言葉に、セスも気づく。床に置いた石版の上にぽたぽたとこぼれ落ちる水滴。そして、それはセスの両目から流れ出ているのだった。
男が泣くのは恥だと、特に人前で泣くことなど、ありえないのだと教えられて育った。物心ついてからは、どれほど人々に蔑まれても、自分のことが情けなくても、涙を流すことなどなかった。最初のうちは我慢してこらえていたが、いつの間にか感情と涙は切り離され、辛くても悲しくても涙がこみ上げることなどなくなっていた。だからこそ最初に出会ったとき大人の男であるクシュナンが涙を流していることにあんなにも驚いたのだ。
だが、今はセスの両目から、あの日のクシュナンのようにとめどなく涙が流れている。
セスはあわててクシュナンの手をふりほどき、顔を隠そうとした。泣いている顔なんて決して見られてはいけない。しかしクシュナンは思いもよらないほど強引に、セスの体を抱き寄せるとその頬に手をかけ、泣き顔をのぞき込んでくる。沈黙の中しばし攻防が続き、結局はクシュナンが勝つ。セスの頬を撫で、流れる涙を指先でなぞり、やがて額を額に押しつけてくる。
「セス、おまえは兄さんの言うことを聞け」
ささやくように、しかしきっぱりとした口調でクシュナンは言った。
神の使いであるクシュナン本人が、最後の場面にはセスに立ち会うなと言っているのだ。ならばセスにはもうこれ以上、反論の言葉はない。納得すべきだとわかって、泣き止もうとして、しかしいったんあふれだした涙をコントロールすることはひどく難しい。
結局クシュナンにとってもセスはただの世話役で、気まぐれにかまって、暇つぶしに優しくして、しかしこの集落を去る最後の瞬間まで一緒にいたいと思うほどの存在ではなかったということなのだろうか。
セスは泣きながら、なんとか首を縦に振った。クシュナンを困らせてはいけない。だって自分は彼をもてなし、できるだけ不便なく快適にこの集落で過ごしてもらうために選ばれた世話役。だから、こんなときに自分勝手な感情で泣いたりわがままを言ったりすることは許されないのだ。
泣いたりしてごめんなさい。気にしないで。そう書きたいのに、石版はセスの流した涙で濡れてしまい、文字を書くことはできない。いったん言葉が伝わる喜びを覚えてしまったから、気持ちを知らせる方法を奪われるもどかしさはかつてとは比べものにならないほど大きく感じられる。セスがなすすべもなくぎゅっと拳を握ると、クシュナンはセスを落ち着かせるようにその肩をさすってくる。
そして、褐色の肌をした神の使いは言った。
「セス、見送りはいらない。だから、その代わりに今、俺の願いを叶えてくれ」
上唇に何か柔らかいものが触れた。それが何であるか、目を開けたままでいたセスには見えているはずなのに状況が認識できない。ほんの軽く触れられているだけなのに肌がぞっと泡立つような感覚があり、セスの涙は一瞬で止まった。
触れて、離れた唇が再び近づき二度、三度。今度は、濡れた感触が上下の唇の合わせ目をなぞってくる。今はまだ硬く引き結ばれたままの唇が柔らかく開くのを待つように、何度も何度も熱く滑らかな舌がそこを撫でる。
口付けなら知っている。何度も見たことがある。でも実際に他人の唇と触れあうのははじめてだった。そこを舐められることの意味も正確にわかっていたわけではないが、セスは戸惑いながらゆっくりと唇を少しだけ開いた。
「……」
声は出ない。でも、自分の唇から今まで聞いたことのないような吐息が漏れるのを聞いた。そしてその音はきっとクシュナンの耳にも届いている。
大きな手のひらで両耳を塞がれ、セスの頭の中はクシュナンの厚い舌が自分の口内を蹂躙する、ぴちゃぴちゃと濡れた音でいっぱいになった。舌を甘噛みされ、吸われ、口蓋を舐められると全身が震えた。集落の他の人間が、アイクとリュシカがこんな風に口付けて、気持ちよさそうに体を震わせているのを見た。口付けとはこんな、体中がとろけるような刺激を与えてくるものなのか。セスは何も考えられず与えられる強烈な快感を必死で受け止めるだけだった。
クシュナンの腕は気づけばセスの背中から腰をまさぐっている。ぐっと抱き寄せられて、セスの太ももに熱く硬いものが触れる。そのときセスの脳裏に、滝壺での水浴びの光景がよみがえる。しなやかな筋肉に覆われたクシュナンの美しい体。そして、水に濡れたセスを見つめる熱っぽい視線と、その下半身で布を持ち上げ主張していたもの――。
セスが息を飲むのが聞こえたのだろう。クシュナンはそっとセスの手を取り、彼の勃起したものに着衣の上から触れさせた。そして耳に唇を寄せ、言った。
「セス、本当は気づいていたんだろう。あのとき俺が何を見ていたのか、俺がずっと何を欲しがっていたのか、気づいていて間違えた振りをしたんだろう」
ぎくりと全身が震えた。
クシュナンは神の使いだ。何もかもお見通しだ。例えばそれが、セス自身が認めたくなくて、目をそらしてきた思いだろうと。
そうだ――セスは知っていた。いつからかクシュナンがセスを熱っぽい目で見つめるようになったこと。熱い指で触れようとしてきたこと。あの日わざとセスを滝壺に引き入れて、濡れた着衣から透けて見える体を見つめ欲望を猛らせていたこと。
気づいていて、わかっていて、怖かったからごまかした。「神の使いは相手を欲しがっている」と言い、でもそれは自分ではないはずだと思い込み、兄に助けを求めた。そのくせいざリュシカが連れてこられたら、クシュナンがリュシカに惹かれることを想像して恐怖と嫉妬に震えた。一体、この気持ちは何なのだろう。
「答えなくていい。ただ、俺にはもう時間がない。嫌でないならセス、頼むから思いを遂げさせてくれないか」
手の中にあるクシュナンの熱が、ぐっと質量を増した。
この気持ちを何と呼ぶのかはわからない。わかったところで、クシュナンはここから去ってしまうのだから、自分たちに未来などない。ただ、手の中にあるのはあとほんの少しの時間だけ。そしてセスは――クシュナンに求められていることを決して嫌だと思ってはいない。
伝え合うこと、わかり合おうとすることは怖い。怖いけれど、同時にそれはひどく甘くて、一度知れば決して手放すことはできなくなる。
クシュナンがセスと一緒にいることに喜びを感じてくれて、セスの言葉を聞きたがってくれて、それだけでも十分満たされたし幸せだった。だがこうして抱き合うこともまた言葉とは別の意味で互いを知り合うことであるなら、セスにとっては新たな喜びに違いない。
セスは手に包み込んだクシュナンの欲望をそっと撫で、体の力を抜いて彼の厚い胸板に体重を預けた。
「セス……」
熱いため息交じりにクシュナンが名前を呼んでくる。同じように名前を呼び返すことができたらいいのにそれは決して叶わないから、セスは褐色の首筋にひとつ口付け、目を閉じた。クシュナンの腕に力がこもり、セスの体をひときわ強く抱きしめてくる。
どこかでガサリと、藪の揺れる音がしたような気がした。
強い風が吹いたか、動物が横切ったのだろう。セスは深く考えない。