26. 喜び、そして糾弾

 羞恥、痛み――そして快楽。与えられたのはセスがこれまでの人生で知らなかったもの、そして、これからの人生でも決して知ることはないと思っていたもの。

 クシュナンの褐色の肌はすべすべと滑らかで、触れるとやけどしそうに熱かった。しかしそれがセスの肌と触れ合えば、不思議なことに互いの温度はすぐに同じになり、やがてどこまでが自分でどこから先が相手の体であるのかがわからなくなる。

 クシュナンの顔をずっと見ていたいが、一方で腕の中で乱れる自分の表情を彼が見つめているのだと思えばどうしようもなくいたたまれない。自分はきっと醜い。自分はきっとみっともない。セスはぎゅっと目を閉じて恐怖を少しでも遠ざけようとし、そのうち自分たちの体が汗やそれ以外の液体とともにどろどろに溶けてしまうような感覚を味わった。

 きつい場所を指先でほぐされているときに、少し前に見たアイクとリュシカの契りの儀式を思い出した。指が二本三本と増やされた後に、そこにあてがわれるのが何であるかは知っている。あのとき彼らに渡したのと同じ薬草混じりの潤滑油を持っていれば、もっと楽に先に進めるのだろうか。しかし、そこでセスは思い直す。違う。今の自分には感覚を麻痺させることも痛みを散らす方法もいらない。今はただ、それが痛みだろうが快楽だろうが、クシュナンが与えてくれるものすべてをわずかも漏らすことなく受け止めたい。

 クシュナンは優しくセスの体をいたわってくれた。それでも、熱く硬いものが押し入ってくる瞬間には、これまで感じたことのないような痛みと衝撃がセスの全身を貫いた。セスは、自分が声を持たなくて良かったと思った。痛みにうめくことも叫ぶこともできないから、この瞬間に自分が苦痛を感じたことをクシュナンに気づかれずにすむ。

 だが、聡い神の使いは軽く眉をひそめてセスの髪を指先でき、口づけながら言った。

「すまない。痛むだろう」

 セスは必死に首を左右に振った。戸惑いも恐れもどこかに消え去っていた。一体なぜ自分はクシュナンの熱い視線をあんなにも恐れたのだろう。どうして彼の欲望から目をそらそうとしたのだろう。こうして繋がってしまえば、過去の自分の心境が不思議に思えるほどだ。だってセスはずっと、月明かりの下でクシュナンを見つけた夜からずっと、こうなることを望んでいたのだから。

 つながった場所が馴染むまで、クシュナンはセスに口づけ、あちこちをさすり、痛みで萎えかかった場所を手で愛撫し続けた。当初の違和感が和らいだ頃に少しずつ揺らすような動きが加わり、そのうち痛みだけではない感覚が押し寄せセスはなすすべもなく乱れ、果てた。クシュナンもセスの中に欲望を放ち、荒い息が落ち着いてもなお腕の中の体を離そうとはしなかった。

 月は高く昇っている。

 あまりに戻りが遅いと家族に不審がられるかも知れない。セスはよろよろと上体を起こして、散らばった衣類を再び羽織った。名残惜しそうに手を伸ばしてくるクシュナンを押しとどめ、彼の手のひらに指を落とし、ゆっくりと言葉を綴る。

 ――戻らなきゃ。また、明日来ますから。

 クシュナンは未練がましい表情を見せながらも、小さく息を吐いてセスを解放した。

「そうだな。まだ明日はあるんだからな」

 この行為の意味はなんだろう。真夜中の山道を歩きながらセスは考える。

 人が交わる理由はいくつもある。大人になる儀式として、快楽を得るため、誰かを屈服させるため、そしてアイクとリュシカが人々の前で堂々と示したように――愛のため。

 家族以外から一切の価値を認められることのなかった自分に、クシュナンは何を見いだして、何に対して欲望を抱いたのだろう。セスはそれが愛のためであればいいと願いながら、同時にそんなはずはないと考える。だって神使いと集落の足手まといでは、あまりに違いすぎる。

 最初からクシュナンはセスが彼に惹かれ、求めていることに気づいていたのかもしれない。そしてこの一年間の献身への報いとして体を与えてくれたのかもしれない。

 セスはそれでも良かった。同情でも褒美でもなんでもいい。彼の体の熱やたくましさ、ささやく声の甘さを知ることができて、その記憶は決してセスの中から消えないだろう。ただ人の言葉を受け流すだけの空っぽな自分の声を聞こうとしてくれて、焼けるような熱で内側から満たしてくれた神の使い。彼との思い出をそっと反芻して生きることができるのならば、それだけでもきっと自分のような人間にとっては身に余る幸せであるに違いない。

 屋敷にたどり着き、帰宅が遅くなったことに気づかれないようセスはそっと入り口の戸を開く。すでに家族は部屋に入り、手伝いの人々も下がってしまっている時間。そこは薄暗く誰もいないはずだった。

「セス」

 しかし、一歩屋内に脚を踏み入れた瞬間、厳しい声がセスの名を呼んだ。思わずセスは後ずさりかけるが、その声はよく知っているものだ。灯籠とうろうひとつだけの薄闇に、兄の姿が浮かび上がる。帰りが遅くなったから怒っているのかもしれない。謝って、どうにかここはやり過ごそう。そう思ったところで、兄の他にもうひとつ大柄な人の影がそこにあることに気づいた。

「お、白痴の坊ちゃん。ちょうど良いところに帰ってきたじゃないか」

 それはカイだった。何かとセスを目の敵にしてくるカイだが、彼と仲間たちの求めるとおりにアイクとリュシカが契りの儀式を行って以降はおとなしくしていた。ここ数日は他の若い男たちと一緒に、祭りの準備に精を出していたはずだ。そのカイが、一体なんのためにこんな時間に、ここにいるのだろう。どうしようもなく嫌な予感がした。

 逃げ出したい。セスはそう思った。

 相手がカイだけだったら実際、きびすを返して走り出していたかもしれない。しかしそこには厳しい表情で見つめてくる兄もいる。そして、スイが口を開いた。

「まさかとは思うが……セス。おまえ、掟を破ってはいないだろうな」

 一瞬、時間が止まったような気がした。ぎくりと全身が震え、平静を装わなければいけないとわかっているのに背中を冷たい汗が伝いはじめる。

 掟破り。一体何のことだろう。クシュナンの戒めを解いて何度も水浴びに連れ出したこと。こっそりリュシカを連れて行って文字を読む勉強をしたこと。いや、それだけではない。

 何を、どれを認めようか。一番軽いものひとつだけ認めて謝れば許されるだろうか。だって、掟破りがばれてしまったら名誉ある「神の使いの世話役」を下ろされてしまう。いや、そんなことどうだっていい――もしも掟破りがばれてしまえば、きっと明日以降クシュナンのところへ行くことが禁じられてしまう。

 だが、セスが言い訳を綴るために石板を手にする前に、カイが笑いが混じった声色で告げた。

「白痴は、悪知恵も働かないことだけが美徳だと思っていたが、嘘でも吐くつもりか」

 見透かされたセスは手を止める。その姿を見てカイは勝ち誇ったように続けた。

「この哀れな男が神の使いにたったひとつ教えてもらったのが嘘の付き方だとすれば実に情けないものだな。おい、セス、俺が何も見ていないとでも思ったか。おまえがあのよそ者のガキを神の使いに何度も会わせたことは知っている。それだけじゃない、世話役を含め俺たちは神の使いに触れることは許されないのに、おまえ、使いと寝てきたな」

「カイ、冗談もいいかげんにしろ!」

 普段ほとんど耳にすることのない、怒りに満ちたスイの声。兄は自分を信じてくれているのだとセスは心の底から感じた。だがそれは今のセスにとっては喜びどころか、苦しみだ。

 カイはにやにやとした笑いを崩さない。

「スイ、俺はおまえが有能な人間で、おさの跡継ぎにふさわしい人間であることも知っている。だが、唯一の弱点がその白痴だ。集落の誰もが言ってるぜ。セスが関わるとおまえはおかしくなっちまう。哀れな弟をかばうのは美徳かもしれないが、この集落のおさとしては命取りにもなりかねないって、本当はわかっているんだろう」

「そんなつもりはない。俺は……」

 兄の声に、迷いが見えた。

「だが残念だな。そんなにもかばってやってるのに、おまえの弟はおまえをずっと裏切っていたんだ。それどころかたった今、こいつは神の使いが出したもので腹の中をいっぱいにして戻ってきてるんだ。疑うならばその股を開いて見てみればいい」

 スイが、驚いたようにセスを見た。

 クシュナンと抱き合うときに、小屋の外で藪がざわめく音を聞いた。しかし行為に夢中だったセスは、風か動物が横切ったかだと思って音のする場所を確かめにいかなかった。

 何もかも自分の不注意のせいだ。カイの言うとおり、後始末をしていないセスの体の中にはクシュナンの出したものがまだ残っている。ただでさえこぼれ落ちないよう内股に力を入れて立っているのに、脚の間を無理やり見られれば何もかもばれてしまうし、カイはそれをためらうような男ではない。

「セス……おまえ……」

 セスの表情がすべてを物語ったのだろう。スイの顔が蒼白になり、言葉の続きは力なく夜に溶ける。視線を合わせず、言葉を失う兄弟を前にカイはふっと笑い、改めてスイに向き直った。

「おい、スイ。集落の人々にセスの裏切りを明かせばどうなるか、わかっているな」

「カイ、おまえ何を……」

 スイの声の調子はさっきまでとは比較にならないほど弱々しいものだった。この場の空気を支配しているのはカイだ。カイは言いがかりでも何でもない、正々堂々とセスを糾弾する材料を今や手に入れたのだ。

「俺が悪いんじゃない。掟を破ったのはセスだ。セスが神を冒涜した。そして、その原因を作ったのはこの白痴を使いの世話役に任命したスイ、おまえだ。このことを集落の皆が知れば、祭りどころではないぞ」

「言うのか、皆に」

 兄の声はひどく遠く聞こえる。セスはただぼんやりと立ちすくんだ。ほんの少し前までこの肌にクシュナンの体温を感じて、ただただ幸せだった。だがその幸せも今となってははるか彼方に消えていこうとしている。

 カイは笑いをおさめ真剣な表情になる。そして、うろたえたスイを哀れむように、諭すように言った。

「何度も言わせるな。俺はおまえのことは買っているんだ、スイ。何をすればいいか本当はわかっているんだろう? 掟破りを追放しろ、それが集落のためなんだ。そうすれば俺は誰にもこのことを話さない。予定通り祭りは行われるし、他の男たちもおまえをおさの後継者として認め、従い続けるだろう」

 その言葉に、スイはしばらく押し黙っていた。そして、かすれるような声をようやく絞り出した。

「……夜が明けるまで考えさせてくれ」

 カイは一瞬スイが即答しないことに対して不満げな表情を見せた。しかし、少し考える素振りを見せてから、うなずく。

「いいだろう。情け深いおまえのことだ、時間が必要なのはわかる。だが、長くは待てない」

「ああ」

 カイは帰り際、セスの肩を強い力で押した。セスは思わずよろめいて、床に座り込む。尻にじわりと生温かく濡れた感覚が広がり、注ぎ込まれたあれがこぼれてしまったのだと恥ずかしくてたまらなくなる。

「セス……」

 カイが出て行った扉を閉めると、スイは途方に暮れたような表情を浮かべたまま、しゃがみこんだセスに手を伸ばした。だが、セスはその手を取ることも立ち上がることもできない。床にへたりこんだまま気持ち悪そうにもぞもぞと腰を動かすセスを見て状況を察したのだろう。スイは大きなため息を吐いた。

「セス、おまえは何も心配するな」

 その声は優しかった。どうしようもなく優しかった。

 セスはてっきり怒られるのだと思っていた。信じて任せたのに、なぜ掟を破った。なぜ勝手なことをした。やはりおまえは白痴だ。そうなじられることも覚悟していたのに、兄の声はむしろ今まで聞いた中で一番優しく――悲しかった。

「もしかしたら俺は、おまえをあの小屋に通わせ続ければこうなるとわかっていたのかもしれない。なのにおまえに世話役を任せ続けたのだから、セス、これは俺のせいだよ。全部俺がなんとかするから、とりあえず体を清めて今夜は休め」

 大きな手がセスの髪をくしゃくしゃと撫で、離れる。そしてスイは力ない足取りで廊下の床板を軋ませながら寝室の方へ消えていった。