24. 祭りの終わり

「……ただいま」

 外出から戻ってきたリュシカは珍しく思い悩むような表情をしていた。

 セスに頼まれて、リュシカが昼間にクシュナンの小屋に同行するようになってからは、もう何日も経っていた。帰宅するとリュシカは遊びから帰ってきた子どものように、いかにクシュナンが熱心な生徒であるか、クシュナンとセスの意思疎通がどれほど進んだかを楽しそうに語るのが日課になっていたが、今日は少し様子が違っている。

 アイクは薬草を貼り替える手を止めてリュシカをじっと眺めた。今では自力で立ち上がるだけでなく、人の手を借りずに歩くことができるところまで脚は回復していた。生活の雑事を任せきりにしているのが申し訳なくて、アイクはせめて自分のことだけは自分でやるよう務めているが、普段のリュシカだったら「それは僕にやらせて」と猛然と薬草を奪いにくる。こうして脚の治療をアイクがするに任せているところからして、やはり今日のリュシカは様子がおかしい。

「どうした?」

 思わず声をかけると、リュシカはアイクの隣に座り込んでからおもむろに口を開いた。

「実は……」

 今日、セスが目を離した隙にクシュナンがリュシカにそっと話しかけてきたのだという。それは、セスには内緒でこっそり小屋に来て欲しいという頼みだった。

「セスは遠慮して朝早くには来ないから、彼に知られないようできれば明日の早朝に来てくれないかって」

 アイクの心を後悔がよぎる。もしかしたら自分はただの間抜けだったのではないか。リュシカが「クシュナンが求めているのはセスで、自分ではない」と言うからそれを鵜呑みにした。リュシカがアイクを特別な存在だと言い、人前で契りの儀式さえしてくれたから安心しきっていた。だが、やはり神の使いとやらはリュシカを手の内におさめようとしているのではないか――。

 しかし、アイクがそれ以上悪い想像を巡らす前に、リュシカは意外な言葉を口にした。

「君も、一緒に」

「俺も?」

 信じられず訊き返すと、リュシカは首を縦に振る。クシュナンは確かに、アイクと一緒に自分を訪れるようリュシカに頼んだのだという。

「まだ脚が万全じゃないから無理だって言ったんだけど、一緒にいる男が心配すると良くないからできれば二人で来て欲しいって言うんだ」

 どうやら神の使いとやらは、会ったこともないアイクの嫉妬心を見抜く程度の察しの良さは持っているらしい。一緒に来いというからには本当によこしまな思いはないと信じて良いのだろうか。

 アイクとしては、そろそろ自分の脚がどの程度の距離を歩けるか試してみたくなっていた頃合いだ。それに、クシュナンがセスには聞かれたくない話をしたがっているのだという事実にも興味をそそられた。

 翌朝、集落の他の人間の目にもつかないよう、二人は日が昇る前に家を出た。アイクは萎えた脚でゆっくり歩き、リュシカは心配そうにそれに寄り添う。セスたちの暮らす屋敷の近くを通るときは感づかれないかと心配したが、幸いアイクとリュシカが森に入っていく足音は、朝の風が木々を揺らす大きな音にかき消された。

 はじめて目にする神の使いの住処は清潔だがこぢんまりとした建物で、アイクとリュシカの仮住まいよりも小さかった。リュシカが扉を数度叩くと、小屋の中から「入れ」という声が聞こえる。そして、アイクは噂に聞いていた神の使いとはじめて対面した。

「その大男が例の奴か?」

 部屋の奥の方で柱に寄りかかるように座る男は、アイクの大きな図体を見てもほとんど驚いた様子は見せなかった。

「そうだよ。アイク、彼がクシュナン。セスがお世話をしている山の神の使い。クシュナン、彼はアイク。僕のかけがえのない人だ」

 かけがえのない人、という言葉にクシュナンは少しだけ眩しそうに目を細めたように見えた。しかし口にしたのは「座れ」という言葉だけだった。アイクとリュシカはクシュナンからは少し距離を取って床に腰を下ろす。

 アイクは改めてクシュナンの姿を確かめた。頭の先から足の先まで検分するように眺めていると、リュシカが落ち着きなく腕をつついてくる。そんなにじっと見つめては失礼だと言いたいのかもしれない。

 クシュナンは、リュシカとは別の意味で美しい男だった。褐色の肌はこのあたりでは見かけないが、南へ行けば珍しくないと聞いたことがある。少し癖のある黒い髪は耳にかかり、堀の深い顔立ちに青色の瞳がちょうどいい具合に収まっている。一年近くもこんな狭い場所に閉じ込められている割には贅肉がついているわけでもなく、引き締まった体には十分な筋肉を蓄えている。アイクほどの大男ではないものの、立てばそれなりに立派な体躯をしているだろう。

 だが――これは、人間の男だ。

 アイクは確信した。

 あれほど浮き世離れして神々しかったリュシカですら、ただの少年だった。アイクをリュシカと巡り合わせた不思議な声、人の体を獣に変える力を持つ不思議な何か。あれこそは、もしかしたら本当の神だったのかもしれないとアイクは思う。だが今目の前にいる褐色の男があの不思議な声の主のような、特別な存在であるようには思えない。

 世間知らずのリュシカやセスが気づかないのは、もしかしたら仕方のないことなのかもしれない。だがアイクにはわかる。クシュナンはあまりに生々しい欲望や感情を持ち、人間の気配に満ちあふれている。

「セスには聞かれたくない話があるんだって?」

 アイクがゆっくりと口を開くと、クシュナンはうなずいた。

「一昨日、俺が『山の神の元へ帰る』日が近いとセスが言った。確かにこの集落の人間は俺のことを神の使いだと信じている。そして、一年にわたって十分にもてなした後で祭りを開き、その最後に使いを山の神の元へ帰すのだとも聞いた。俺はすっかり時間の感覚を失っていたが、祭りは近いのか? あんたたちは祭りがいつで、そこで何が起きるかを知っているのか?」

 先に返事をしたのはリュシカだった。申し訳なさそうに首を左右に振りながら言う。

「ごめん。僕たちはよそものだから、祭りのことは何も……」

 だが、アイクはそこでリュシカの話に割って入る。

「知らないが、想像はできる」

 そう口にすることに迷いがなかったわけではない。この集落について、「神の使い」や「祭り」について、アイクは常に嫌な予想をしてきた。ただリュシカを不安にさせたくなかったので自分の心の中にとどめてきただけだ。脚さえ治れば自分とリュシカは旅に戻る。神の使いも、祭りも、セスも関係なくなる。

 しかし祭りの日が思ったより近く、しかもクシュナン自身がこの先に起こることを知りたがっているのであれば、話は別だ。

「クシュナン、おまえはこのままだと死ぬことになる」

「アイク?」

 不謹慎な物言いに、リュシカが驚いたように小さな叫び声を上げる。この純真で世間知らずな恋人はやはり何をも疑っていなかったのだろう。クシュナンが「自分は神の使いだ」と言えばそれを信じて、集落の人々が「祭りの最後に神の使いを帰す」といえばそれを信じる。言葉の裏など一切読もうとせずに。

「なぜそう断言できる?」

 一方のクシュナンはたいして驚いた様子もなく、アイクのどんよりとした灰色の目を見つめてきた。クシュナン自身はおそらく自分の運命について薄々感づいていたのだろう。アイクはそう思った。

「前にも同じようなものを見たことがあるから」

 アイクがそう続けると、リュシカの小さな体が強ばった。

 国の厄災の責任を一心に背負うためだけに《少年王》の名を与えられ王宮にとらわれていた日々の記憶は、自らの民に死刑を宣告されたときの傷は、リュシカの中から消え去ったわけではない。アイクは手を伸ばし、リュシカの細い手指を握りしめた。

「俺は、この集落の人々は自分たちが山の神と信じるものへの献身を示すために、ときどき山で出会った人間をさらってきては『神の使い』に仕立て上げているんじゃないかと思っている。俺とリュシカが襲われて、ここへ連れてこられたのと同じように」

 疫病や飢饉を解決する方法を持たずに、それを《少年王》に委ねた王都の人々。ここの集落で行われているのもきっと同じようなことだ。地震も雪崩も起きないように、飢えることなく山の恵みの恩恵を受けることができるように――小さな村で暮らす非力な人々にできることは、祈ることだけ。そして祈りは犠牲を伴うほどに効果が強くなるのだと信じるのは、不思議なことではない。

「でも、アイク。クシュナンは神の使いだって自分で言った」

「こいつには理由があったんだろう。セスの前で『自分は神の使いだ』と言わずにはいられない理由が」

 クシュナンはアイクの言葉を否定しない。ただ青い瞳を燃やして挑むようにアイクを見つめた。アイクもクシュナンをにらみ返し、そんな二人を心配そうにリュシカが眺める。

 そしてアイクは言った。

「殺されるまえに、おまえをここから逃がしてやろうか」