兄の姿が消えてからもしばらく玄関に座り込んだままでいたセスは、自室に戻ってからもとてもではないが寝床に入るような気分にはなれない。
やはり自分は馬鹿だった。犯した掟破りは何もかも、カイに気づかれていたのだ。一体いつ、どうやって。疑問がないわけではないが、兄のいるあの場でうまく嘘をつくこともできず何もかも認めてしまった。それがすべてだった。
それに――カイは確かにセスに個人的な嫌悪や憎しみを抱いているかもしれないが、その一点を除けば彼の言っていることは何も間違ってはいない。スイがセスをかばい続けることに反感を持っているのは決してカイだけではない。これまではセスが特に集落に貢献するようなことをしない代わりに集落の利益を大きく損なうようなこともしなかったから人々は声高にスイを責めはしなかった。だが、どうだろう。セスが多くの掟を破り、そのせいで祭りを台無しにしてしまったとすれば。
セスが神の使いの世話役としての仕事をまっとうできなかったせいで、もしこの集落を厄災が襲ったとすれば、きっと人々の怒りの矛先は白痴だと見限っているセスではなく家族へと向かうだろう。そのとき一体、家族の身には何が起きるのだろうか。
すっと背中が冷たくなる。
セスは幼い頃から父が、兄が、家族がこの集落の平穏のために身を粉にして働いているのを目の当たりにしてきた。そのすべてを自分の軽率な行動が壊してにしてしまうのかもしれないと、なぜ今まで思い至らなかったのだろう。
だが、もしそこまで想像できていたとして自分がクシュナンに惹かれることを止められただろうか。彼を知りたいという欲を、触れようと手を伸ばしてきた彼に応えたいという衝動を抑えることができただろうか。自信は持てない。
セスは窓際に座り、高く上った月を眺めた。兄は、自分が何とかすると言った。何も心配するなと言ってくれた。しかし今度こそカイは本気だ。カイはセスのことを嫌っているが、スイを憎んでいるわけではない。むしろかつてのカイは賢く判断力に優れたスイに憧れているようですらあった。カイはカイで、弟への愛情で判断を誤りかねないスイを、そしてそれによって集落に起こる厄災を危惧しているのではないだろうか。彼は彼のやり方で集落のことを思っているからこそ、今こそセスを排除しようとしているのだろう。
集落を思って、セスの排除を主張するカイ。弟をかばって、それに即答できないスイ。だったら今の自分にできることは何だろう。兄を裏切り掟を破った罪滅ぼしとして、これまでずっとかばい続けてくれた家族への感謝の証として。
セスはゆっくりと首にかけたままだった石板を外し、床に置く。続いてポケットから石灰石を取り出し、一言だけ書き付けた。
――今まで、ありがとう。
文字にしたことで決意は形を持ち、もう引き下がることなどできない。行く当てなどあるはずはない。一人で身を立てる方法も知らない。ただ確かなのは、自分がここを去るべきときが来た事実。
山にも森にも慣れているからしばらくは木の実や魚を捕って生きていくことはできる。その先はどうだろう。生まれ育った場所ですら受け入れてもらえなかった自分を歓迎してくれる場所などこの世にあるはずもない。ずっとひとりきりでさすらって生きるか、もしくはどこかで野垂れて死んでしまうのかもしれない。
でも、もう十分だ。クシュナンだってどのみち、あと少し経てばここから去ることになっている。そうすればもうセスの心を引き留めるものもなくなるのだから。
着替えを数枚だけ包めば、それで荷造りは終わった。もしかしたらセスの思惑に兄が勘付かないとも限らないから、窓からそっと外に出て、兄の部屋の側を通らないように注意して家の敷地を出る。とりあえずどこか、朝になって兄が探しに出てきたとしても見つからないような場所まで。大丈夫、と自分に言い聞かせる。かくれんぼなら、セスは子どもの頃から得意だった。
しかし、いざ山奥を目指そうと踏み出したところで、どうしてももう一度だけクシュナンの顔が見たくなった。昼間感じた熱や喜びはもはや遠く消えてしまったが、彼に対する思いまでもなくなったわけではない。カイがまだ見張っている可能性もある。扉を叩いたところで眠っているクシュナンが気づかないということもあり得る。それでも、彼が眠る場所を扉越しに眺めて祈るだけでもいい。自分の心にけじめを付ける意味でも、もう一度だけ彼の近くに行きたいと思った。
セスは恋を知らない。愛も知らない。家族以外の人間を理解し理解されることを、はなから諦めていた。今もそれらの感情をはっきりと認識しているわけではないが、愛を語り契りを結ぶ恋人を思う気持ちというのは、もしかしたら今自分の胸をいっぱいにする感情と似ているのかもしれないと思う。
もちろんセスがクシュナンに愛情を持っているとして、それはただセスの身勝手な気持ち以上でも以下でもない。なんせ相手は自分とはかけ離れた存在――神の使いなのだから。
不思議だった。扉を叩こうと拳を固めると、その気配を察したように内側から声が聞こえた。
「セス?」
許しを得たセスはそっと小屋の中に入る。こんな真夜中なのに横になりもせず、いつものように部屋の隅にクシュナンがあぐらをかいて座っていた。月明かりにうっすら映し出される精悍な顔を見ると喜びと痛みがこみ上げる。
「やっぱり。なんとなく、おまえが来るんじゃないかという気がしていた。無理をさせたが、体は辛くないか」
クシュナンは数時間前に交わされた行為でセスが辛い思いをしたのではないかと気にしている。セスはあわてて首を振り大丈夫だと示した。
もう一度顔を見ることができるのではないかと少しは期待していたが、実際にその姿を見れば何をどう伝えれば良いのかわからず入り口当たりに立ったままもじもじとうつむく。掟を破ったから集落を出て行く。そんなこと、例え彼にはお見通しだったとしても、伝えることなどできない。
「どうした、近くに来い」
手招きされてようやく、ゆっくりとした動きで歩み寄る。石板は置いてきたが、どうせこんな闇の中では文字を書いたって見えなかっただろう。だが、セスを腕の中に抱き寄せるとクシュナンは大きな手のひらを差し出した。
「言いたいことがあるなら、ここに」
もはや文字を書く板などいらない。彼の手のひらをささくれた指先でなぞれば、クシュナンはセスの言葉を読み取る。促されたセスはしばらく悩んで、結局ここでも一言だけ書いた。
――別れを言いに来ました。
すっとクシュナンの顔が曇った。そこに驚きの色がないのを見てセスは、クシュナンはやはり何もかもを知っていたのだと思う。しかし神の使いが口にしたのは意外な言葉だった。
「なんだ、例の祭りが早まりでもしたのか」
そしてうっすらと笑みを浮かべる。
「もうしばらくはおまえと過ごせると思っていたが、残念だ。でも大丈夫だ、覚悟ならできているから。セス、おまえは何も気に病むことはない」
気に病むことはない? 何の話だろう。セスは首をかしげる。クシュナンが去っても悲しむなという意味だろうか。しかし、神の使いにとって一年経てば帰って行くことはあらかじめわかっているはずだから、改めて残念がる必要などないように思える。しかし感慨にふけるクシュナンはセスの戸惑いに気づかないままセスに語りかけるように、彼自身に言い聞かせるように続ける。
「俺は南から家族を連れてやってきた。故郷では『火の粉』を使って見世物をすることを生業にしていたが暮らしはあまり安定しなかった。だから同業者のいない北に行けば珍しがられて、もっといい生活ができるんじゃないかと思ったんだ。ひと月ほど歩いて、さしかかったのがこの山だ」
セスにはクシュナンの言っている意味がわからない。彼は山の神の命でこの集落の人々の信仰を確かめるために使わされた使者ではないのか。「南から」「家族と」、クシュナンは一体何を言っているのだろう。頭が混乱する。
「まさかあんなに地盤が悪いとは思わなかったんだ。ちょうど崖にさしかかったところで突然地面が崩れ、あっと思ったときには一緒にいた妻と子どもの姿は消えていた。助けに行くから合図をしてくれと声を掛け、手を叩いたが反応はなく、見えるのは砂と石の山だけ。さすがに諦めるしかなかったよ」
そこでセスは、触れているクシュナンの手が冷え切っていることに気づいた。いつだってあんなに熱い体温を持っていた彼が、すっかり体を冷たくし、かすかに震えてさえいる。
「妻と子どもに安定した暮らしをさせてやりたくて北を目指したのだから、二人がいなくなれば俺には旅をする理由も生きるべき理由もない。絶望に暮れて、後を追って崖の下に飛び降りてしまおうと考えているところだったよ、セス、おまえが現れたのは」
セスははっきりと思い出す。
月の明るい夜だった。
断崖に呆然と立ちただ涙を流していた美しい見知らぬ男。
あれは、愛する家族を失った絶望と悲しみの涙だったのか。そんな状況にある男を自分たちはひどいやり方で捕らえ、ここに連れてきてしまったというのか。
クシュナンは神の使いなどではない。ただの人間の男で、間違えてここに連れてこられた。そしてその原因を作ったのはセスだ。セスが狩りに行きたいと兄にしつこく頼んだから、その上仲間たちとはぐれて、普段誰も立ち入らないあの断崖に入り込んだから、クシュナンを見つけてしまった。そしてカイたちにもクシュナンを見つけさせてしまった。
「神の使いなんてばかばかしいと思ったさ。山奥で暮らす奴らは迷信深くて愚かだと呆れもした。だが――怯えていじけた目をして、それでも必死に俺の助けになろうとしてくれるおまえを見ると、すぐに逃げ出すのも不憫だと思ったんだ。俺を逃がせばおまえは仲間たちに責任を問われるだろう。だから、もう少しだけ……そう思っているうちに、まさかこんな気持ちが生まれるなんて」
冷たい手がすがるようにセスの手を握りしめてくる。クシュナンはセスを見つめて、これまで見たことないような優しく悲しい目をした。
「どうせ死ぬつもりの命だった。あのとき崖に飛び込むつもりだったんだ。だから、気にするな。ここの奴らに神の使いだと信じられたまま殺されるのも同じことだ。神の使いを屠る儀式が無事に終わり、一年間おまえがしっかりと務めを果たしたことを知れば、少しは人々のおまえを見る目も変わるだろう。それこそが俺の望みだ」
淡々と語るクシュナンの姿はもはやセスの目には入らない。セスはただ硬直して、クシュナンの言葉を頭の中で反芻する。
クシュナンは、神の使いではなかった?
クシュナンは、祭りの最後に殺される?