そして、山の神の祭が行われる日がやってきた。
昼過ぎに広場でスイが鳴り物を叩く。それが合図だった。色鮮やかな布や花で飾り付けられた祭壇が広場の真ん中に置かれているが、その上にはまだ誰の姿もない。人々はただ楽しそうに着飾り、歌い、踊り、飲み食いしている。広場の隅では、この日のために潰された山羊が丸焼きにされていて、子どもたちが一番おいしいところを切り分けてもらおうと、焼き上がる前から列を作っている。その光景からは一見して禍々しさを感じることはできない。
「楽しそうだ」
祭りの熱気に当てられたのか、リュシカも少し浮かれたような表情をしている。おまえを磔にして焼き殺そうとする王都の民衆だって、同じくらい楽しそうだったさ――そんな言葉がアイクの頭をよぎるが、もちろん口には出さない。
「そういえば、聞いたか? セスがいなくなったらしい」
通りすがりの男が、仲間にそんなことをささやいているのが耳に入った。あれから一週間ほどが経ち、セスの失踪は集落でも噂になっているようだ。だが、悲しいことにそこに彼の不在を惜しんだり、その行く末を心配したりする声はない。
「やはり最後まで大役を果たすことはできなかったか」
「しょせん白痴だ。一体なんたってスイもあんな奴を神の使いの世話役に任命したのか」
「まあいい。これであいつの辛気くさい顔を見なくてすむようになるなら、これも神の使いの思し召しってやつじゃないか」
一斉に声を上げて笑う男たちの声にはあからさまな嘲笑が込められていて、アイクは腹の奥から不愉快な気持ちがわき上がるのを感じた。それを察したのか、リュシカがぎゅっと手を握り、ささやきかけてくる。
「だめ。僕だって腹は立つけど、今騒ぎを起こしたら全部台無しになる」
アイクはぐっと唇をかんで感情をやり過ごした。確かにリュシカの言うとおりだ。せっかく危険を犯して「火の粉」を取りに行き、おそらくは誰にも気づかれずに準備を整えたのだ。ここでいらぬ騒動を起こしてしまえば計画が狂ってしまう。そしてそれは、決してセスやクシュナンのためにはならない。
二人は少し離れた場所に座って、にぎやかな人々を眺め続けた。あまり近づけばまたよそものだなんだと文句を言われるだろうから、人々の輪には入らない。一度、二人の姿を見つけたカイが寄ってきたが、思い通りセスの排除に成功したからか、それとも酔っ払っているからか、やたら機嫌が良く「よう、脚の具合はどうだ」と絡んできただだけですぐにどこかへ消えてしまった。
日が落ち、やがて祭りは終盤にさしかかる。
広場に現れたスイが再び鳴り物を叩くと、それを合図に女や子どもがぞろぞろと家へ向かって歩き出す。中には帰るのを嫌がってぐずる子どももいるが、担ぎ上げられ広場からは連れ出されてしまう。ここからは、いよいよ祭りの最終盤だ。
さすがにこの先をのぞくことはよそ者には許されないだろう。アイクとリュシカはあらかじめスイに教えられた建物の影に身を隠し、そっと広場の様子を見守ることにした。
ここで今起ころうとしていることに、自分やリュシカの直接の利益は関わっていない。なのになぜこんなにも不安な、落ち着かない気持ちになるのだろう。そんな気持ちが気づかれてしまったのかリュシカがふとアイクの分厚い胸板に手を当て、その鼓動の早さに笑った。アイクが仕返しに彼の薄い胸に手を当てると、リュシカの心臓も同じくらいの早さで鳴っていた。
どうか、うまくいきますように。
そう強く祈った瞬間、誰かが叫んだ。
「神の使いが来るぞ!」
人々の視線を追うと、森から広場に続く道をふたつの人影が歩いてくるのが見えた。布を被った中肉中背の男は右手に松明をかかげ、左手にロープを持つ。そのロープの先は彼について歩く大柄な男――クシュナンの拘束された両手首につながっている。二人は月明かりに照らされてしずしずと歩き、やがて広場の真ん中までやってくる。
人々はようやく目にした神の使いの姿に、ため息をもらして地面にひれ伏した。
改めて見ると、クシュナンは何もかもがこの集落の人間とは違っている。褐色の肌に輝く漆黒の髪、真っ青な目、どれもこのあたりでは見かけないもので、だからこそ人々はより強く神々しさを感じているのかもしれない。
「神の使いを、祭壇へ」
スイがそう声を上げると、布を被った男がクシュナンを祭壇に上げる。そしてロープを祭壇の梁に結び付けてから――おもむろに自らの頭を覆う布を取った。
瞬間、人々がざわめいた。ひれ伏していた頭が次々起き上がり、不審そうな表情で互いに顔を見合わせる。
「なんだ、あれは。セスじゃないか」
「あの白痴、逃げ出したっていう噂は嘘だったのか?」
人々のざわめきは耳に入っているだろう。少し緊張した面持ちで、しかしセスはしっかりと顔を上げて観衆を見回した。あまりにその態度が堂々としているので人々のどよめきも少しずつ収まっていく――そのときだった。
「話が違うぞ」
大きな声を上げたのはカイだった。
「スイ、あいつはここを出て行ったんじゃなかったのか。それが、祭りに協力する条件だったはずだ。なんであそこに立っているんだ!」
その声に、人々が戸惑ったようにカイを見つめる。何らかのやりとりがスイとカイの間にあって、そのせいでセスが集落を一度は去ったことを彼らはここで初めて知ったのだろう。だが、スイは落ち着き払ってカイを一喝した。
「聖なる儀式の途中に騒ぐな、不謹慎だぞカイ。もう少しだけ待て。祭りの最後まで見届ければ、後は何だって好きにすればいい」
長の後継者であるスイと、若者のリーダー格であるとはいえただの集落の一員であるカイ。ここで言い争いをはじめれば、必ず話は割れる。しかも、神聖なる山の神の祭りの最中に騒ぎを起こせば、それを良く思わない人間も出るだろう。ここはいったん引いた方がいいと判断したのか、カイは不承不承黙った。
クシュナンが黙ったまま祭壇にひざまずくと、セスは祭壇に置いてあった巨大な鎌をゆっくりと手に取った。この儀式のときのためだけに作られ、この日のために鍛冶の手でぴかぴかに研がれたという大鎌。この美しい凶器は、これまで何人の「神の使い」――いや、「神の使い」に仕立て上げられた哀れな旅人たちの血を吸ってきたのだろう。
月明かりを反射して、まぶしいほどに鎌が光る。セスの表情はおそろしいほど落ち着いている。うつむいたクシュナンの表情は見えない。
セスが鎌を振り下ろす。その切っ先が本当にクシュナンの首筋を捕らえてしまうのではないかと、一瞬背中が冷たくなる。腕の中でリュシカの体も緊張のあまりぎゅっと固くなった。
次の瞬間、空気が割れるような大きな音と同時に、閃光が闇を裂いた。
「……っ……」
この場で起こることについて事前に聞かされていたアイクだが、それでも信じられなかった。何もない場所に色とりどりの光が爆ぜ、炎が燃え上がり、打ち上がった火の玉が次々と天高くはじける。それは、まるで夢のような光景だった。
本当にこれが神でも魔法使いでもない人間の仕業だというのか。もしかしたらクシュナンは実は本物の神の使いなのかもしれない、そう思ってしまうほど、何もかもが現実離れしている。
「すごい。王宮で見たのより大がかりだし、すごくきれいだ」
リュシカがため息を漏らす。
人々はただあっけにとられていた。スイが言うには、彼らのうち誰一人として「火の粉」を知らないし、それを使った火の見世物を知らない。だからきっと、それを神の使いの起こす奇跡だと信じるだろう。実際に、口をぽかんと開けて人々は言葉もなく祭壇を、そこから闇夜に打ち上がる花のように美しい火を眺めている。
やがて、どこからか声が聞こえた。――クシュナンの声だ、とアイクは思う。
「我は、山の神の使い」
その声に人々がはっとしたように表情を変える。色とりどりの火と煙に取り囲まれて、祭壇の様子は見えない。ただ、声が聞こえるだけだ。
「この一年にわたる皆の者の献身に感謝する。また、長きにわたって五年に一度、多大な犠牲を払い信仰を示すそなたたちの忠誠を、山の神は十分に理解した」
人々の表情が少しずつ変わっていく。驚きから、神の使い直々のお言葉で献身や信仰を認められたことへの喜びへ。
声は、さらに続ける。
「山の神はこれ以上そなたたちに負担を強いることを望んでおらぬ。だから最後にひとつだけ貢ぎ物をもらい受け、我は神の元へ返る。そして神の使いはもうここにはやって来ない。だが、覚えておけ。そなたたちにはすばらしき指導者がいる。ここにいる男、長の息子スイに従えばこの集落は必ず長らえる。多少の苦難や厄災に見舞われたとしても、それはそなたらの団結を確かめるための試し。決していがみ合うことなく、ひとつになって生きよ」
これが、クシュナンの考えた「たったひとつの方法」だった。
山の神の代弁者として、彼らのこれまでの忠誠をねぎらった上で、すべてを終わらせること。もちろんその言葉を人々に信じさせるには、見合った仕掛けが必要だ。そこでしゃべっているのがただの人間の男などではなく、奇跡を起こす本物の神の使いであると信じさせるだけの大きなインパクトがある仕掛けが。
そして――おそらく「火の粉」の仕掛けは、目的を果たすに十分なものだった。最後に「神の使い」は一言だけ付け加えるのを忘れなかった。これが彼にとってはおそらく、何より大切な言葉。
「……では、最後の貢ぎ物として、この一年間、心を尽くして我の身の回りを整えてくれた男を下男としてもらっていく。山の神も満足するだろう」
やがて魔法のように色とりどりの火は消え、大きな風が広場に残った煙を流してしまったときには祭壇には誰の姿もなかった。セスも、クシュナンも、幻のように消えていた。
人々は目の前で起きた驚くべき奇跡を前に、ひとりふたりと誰もいない祭壇に向けてひれ伏しはじめる。声もなく感動に打ち震え、ただ地面に頭をつける。そして、自分以外の全員がひれ伏す様子にあらがえなくなったのか、最後まで残っていたカイもとうとうあきらめたように地面に頭をつけた。