ひどく静かだった。ついさっきまでいた広場の祭りの喧噪、火の粉のはじける音。何もかもが遙か遠く思えるが、そっと目を閉じれば夢のような、炎と光が闇夜に描き出す花の姿が鮮やかにセスのまぶたの裏に浮かぶ。
仕掛けを目の当たりにした集落の人々はひどく驚いているようだったが、その後はどうだろう。もくろみ通りあれを神の使いの起こした奇跡で、クシュナンの言葉が山の神からの伝言であると受け止めてくれただろうか。まばゆい光と地面を覆う煙に紛れてふたりはそのまま広場から逃げ出し、見つからないよう森まで走った。神の使いの小屋にはもはや戻るべきではない。だからもっと森の奥の、以前クシュナンを水浴びさせるのに使っていた滝壺のほとりまでやってきたのだ。
クシュナンと隣り合って座り、セスは褐色の広い肩に頭をもたせかけている。
――驚いた。ああいうものを見たのははじめてだから、君が本物の神の使いなんじゃないかと、少し疑っているよ。
ゆっくりと目を開いたセスが手のひらをなぞると、クシュナンは小さく笑った。
セスはこの一週間、クシュナンが「火の粉」を使って仕掛けを作るのを見ていた。万が一爆発したら危ないので近寄るなと言われたが、屋敷に戻るわけにいかない以上セスの居場所はクシュナンの小屋以外にはなかった。クシュナンの指先は繊細に動き、「火の粉」とそれに色を与えるという数種類の石の粉を混ぜ合わせ、いくつもの固まりを作った。ただの石の粉の固まりがあんなにも美しい仕掛けに変わるとは、いくら聞かされても実際に目の当たりにするまでは信じられずにいた。
クシュナンは小さく笑ってセスの手を握る。
「心配するな、ただの人間の男だ。でも、神の使いのふりをして演説をするのは楽しかったな。それに――」
そこで一度言葉は途切れ、クシュナンはセスのあごに手を当てて顔を上げるよう促した。明るい月に照らされ、セスはクシュナンの真っ青な瞳に自分の顔が映っているのを見た。その自分の姿はどんどん近づいてきて、やがて我慢できずに目を閉じると柔らかいものが唇に触れる。
軽い口付けを一度、二度。そしてクシュナンは言った。
「あれだけの人間の前でおまえを奪い去ると宣言するのは、気分が良かった」
セスは自分の頬が熱くなるのを感じる。そう、確かにクシュナンはセスを連れて去ると、人々の前で堂々と言い切ったのだ。
当初その発想について口にしたとき、兄のスイは渋い顔をした。だが、スイももはやこの集落にセスが居続けることが難しいことは理解していた。もしかしたら、方法はあったのかもしれない。でも自分たちはそれを見つけることができないまま、引き返せない場所まで来てしまった。
「家族の元を去るのは、寂しいか?」
クシュナンの問いかけにセスはゆるゆると首を振る。もちろん、まったく寂しくないと言えば嘘になる。でも、セスにはクシュナンがいる。そして、家族を失いひとりきりになったクシュナンが本当にセスのことを求め、必要としてくれているのであれば――これまで誰の役にも立てなかった自分の居場所は彼の隣以外にはないのだと心から思うのだ。
やがて遠くから、足音が聞こえてくる。一人ではなく、二人。一人は大柄で少し重々しい足音、一人は小柄で軽やかな足音。耳の良いセスにはそれが誰だかわかっている。
「良かった、無事だったんだね」
はしゃいだようなリュシカの声が大きすぎると思ったのか、慌ててアイクがその口をふさぎにかかる。何もかもが終わったら滝壺で落ち合おうと約束をしていたが、彼らもまた誰からも邪魔されずここまでたどり着いたのだ。
セスとクシュナンは慌てて立ち上がった。理不尽なかたちで今回の騒動に巻き込んでしまったにも関わらず危険な頼みも引き受け、様々な場面で助けてくれたアイクとリュシカには返しきれないほどの恩がある。固く手を握って感謝の意を伝える。
「おまえたちのいなくなった後、誰もいない祭壇に向けて誰もがひれ伏していた。もちろんカイもだ。あの眺め、見せてやりたかったよ」
めずらしくアイクまでも笑顔を浮かべて軽口を叩く。彼らだって、セスのとばっちりであるとはいえカイには嫌な目にあわされているから、その光景はよっぽど痛快だったのかもしれない。何はともあれ人々がクシュナンの言葉を本物の神の使いのものだと信じたなら、あの言葉に従ってくれるのならば、今回の山の神の祭りは成功だ。クシュナンは死なずにすんだし、スイへの人々の信頼が揺らぐこともない。
やがて、さらにひとつ、誰より用心深い足音が近づいてくる。この足音を聞くのも最後かも知れないと思うとセスの喉元にはそれだけで熱いものがこみ上げてきた。
「……セス」
足音の主はセスの姿を見るなり我慢できなくなったように駆け寄り、抱き締める。兄が安堵の表情を浮かべてここに現れたということは、本当に何もかもがうまくいったということなのだろう。兄弟は言葉もなくただ固く抱き合う。
だが、やがて思い切るようにスイはセスの体を離すと、背中に負ってきた重そうな袋をふたつ、性急に手渡してくる。
「万が一、神の元へ帰ったはずのおまえたちがここにいることがばれたら、何もかも台無しだ。早くここを離れた方が良い。これだけのものがあればしばらく旅には困らないはずだ」
それは、セスとクシュナンのための旅支度だった。ずっしりと重い袋を手にすると、いよいよ本当に兄や家族と離れるときがやってきたのだと実感が湧く。こんな別れ方をする以上もしかしたら――いや、おそらくセスはもう二度と生きて故郷の地を踏むことはないだろう。父とも母とも、兄とも会うことはない。
「泣いてはだめだぞ。それこそ掟破りだ」
スイはいつものように手を出し、セスの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。集落の男は決して泣いてはいけないと幼い頃から厳しくしつけられる。だからセスは兄の前では必死に涙をこらえるし、両目を真っ赤にしながらスイも涙を流しはしない。そしてスイは改まったようにクシュナンの方に向き直った。
「今思えば、父や私は間違っていたのだろう。弟を可哀想がるばかりで、本当の意味で守ってやることができなかった。本当はおまえのようなよそ者に可愛い弟をくれてやるのは面白くない。でも、おまえは罪深い儀式を、私にとっても心の重荷だった悪習を終わらせてくれたという意味では本当の神の使いだ。だから弟を捧げる。その代わりに、絶対に幸せにすると誓ってくれ」
「誓う。もしこの誓いを破ったときは今度こそ、おまえが俺の首を斬れ、スイ」
固く手を握り、ふたりは約束を確認する。
セスは最後に兄に感謝の気持ちを伝えたいと思った。だが、石板はもうない。だからクシュナンの手を取り、そこに文字を綴る。
「セスが、家族には本当に感謝しているし、集落を愛していると。だからこれからも人々が協力して、平穏な暮らしが続くよう祈っていると」
クシュナンがよどみなくセスの言葉を伝えてくる、その姿を見てスイは「まいったな」とつぶやいた。
「セス、おまえにはもう、俺と父さんが押し付けたあの重い石板も、石灰も必要ないのだな」
そう言われてセスも改めて、もはや自分の首にはあの石板がかかっていないのだと気づく。ふと右手に目をやると、いつだって石灰で白く汚れ、乾燥して痛々しくひび割れていた指先が、今は清潔で傷も治りつつある。セスはもうじき首にかかるあの重さも、指先のひりつく痛みも忘れてしまうだろう。
「元気でね、セス」
別れを惜しむ兄弟の姿を眺めていたリュシカが涙ぐみながら言うと、スイが思い出したように、まだ背負っていた荷物を差し出し、二つまとめてアイクの腕に投げ込んだ。
「アイク、リュシカ。約束だ。脚が治れば旅支度を整え送り出すと言っただろう。これ以上長居しても、よそ者であるおまえたちに住みやすい場所ではない。これ以上の騒動に巻き込まれる前に出発した方が良いだろう。しばらくの食糧と、ささやかだが路銀も入れてある」
「確かにそうだな、リュシカ。そろそろ俺たちも先に進まなければ」
突然の話にリュシカは驚いた表情を見せるが、アイクは納得したように荷物を背負いうなずく。そういえばセスが渡した薬草が少しは効いたのか、いつのまにかアイクの脚はすっかり治っていたようだ。それでも、セスとクシュナンを気にして、人前では片脚を引きずって歩いて見せながらここにとどまり続けてくれた。
クシュナンが、ふと二人に訊ねる。
「こんな山奥を二人でさまよっていたなんて。おまえたちも訳ありなんじゃないのか。行き先はあるのか? なんなら一緒に南に来たっていい」
するとアイクは小さく笑い、しかし首を左右に振った。
「……ありがとう。でも、大丈夫だ」
「そうか、またどこかで会えれば」
スイはその場に残り、あとは二人と二人に別れて逆方向に歩き出す。不安はあるが、クシュナンと一緒であればそれだけで生きていける。セスは強く自分に言い聞かせた。
しばらく歩き、名残惜しくて振り返る。こちらを見つめる兄がうっすらと笑い「いいからさっさと行け」と手を振る。そして、遠ざかる二つの背中。クシュナンが思い出したようにつぶやいた。
「ここに来る旅の途中、噂を聞いた。北の王都から《少年王》が逃げ出したのだと。それは真っ白い肌に銀色の髪をした美しい少年の姿をしていて、長い干ばつを鎮めるために焼かれそうになった彼を、黒い体に灰色の目を持つ大きく醜い獣が彼を連れ去ったんだと」
ちょうどアイクとリュシカの影が藪の向こうに消えるところだった。確かにあの少年は白い肌に金色混じりの銀の髪を持ち美しく神々しい姿をしていたし、あの男は――ばさばさの黒い髪によどんだ灰色の目に大きな体。どこか野蛮な獣のようにも見えた。
「――でも、ただの噂だ」
その言葉にうなずいたセスはようやく心を決めて、兄にもう一度だけ笑いかけると再び前を向く。クシュナンと並んで前へ、ただ先へ歩き出す。
月が明るい夜だ。こんな夜は決まってクシュナンは少し不安定な様子を見せていた。彼の世話をしている頃はそれがなぜなのだかわからず、少し怖かった。でも、今のセスは彼が大きな明るい月に心かき乱される理由を知っている。
クシュナンはこんな夜には今もつらいことを思い出すだろうか。もちろん、思い出すだろう。だって彼は失った人たちのことを忘れたりはしない。
彼が悲しみに暮れるとき、自分は彼を少しでも慰めることができるだろうか。今日のこの美しい夜は、彼の悲しい記憶を少しでも薄めることができるだろうか。
セスの背中に手を触れながら、クシュナンはそっと天を仰ぐ。
「良い月だ」
そしてセスは愛する人のささやきを聞く。
――セス、俺はもう、明るい月の夜に悲しいことだけを思い出さずにすむよ。
(終)
2017.11.18-2018.03.14