Chapter 1|第3話

 ラインハルトは一瞬、自分はやって来る場所を間違えたのだと思った。もしくは、時空がゆがんで奇妙な世界にでも足を踏み入れてしまったのかもしれない。

 リビングの古ぼけて色の少しあせた革張りのソファに居心地悪そうに座っている少年――それはまるで、かつての自分のように見えた。

 ほっそりとした体躯に長い手足。触れればさらさらと指の間からこぼれ落ちるであろう金糸のような髪。うつむいているので表情はよく見えないが、髪の毛と同様輝くような金色のまつげの下には青い瞳がのぞいている。

 道を歩けば少女のように愛らしいと誰もが足を止め、教会では天使のようだと言われた完璧な外見。もうずっと写真を見返すことすらしていないが、確かに昔のラインハルトは目の前の子どもとよく似た雰囲気を持つ、美しい少年だったのだ。そしてあの頃はまだ父からも可愛がられ、オスカルからも愛され幸せに満ちあふれていた。

 ラインハルトは部屋に入ることができず、リビングの入り口に立ちすくんだ。失ってしまったかつての自分、他人から愛される存在であることを疑いもしなかった美しい少年の姿。今ではそんな過去のことは忘れたつもりでいるのに、しかしどうしても捨て去ることができない。

 人より遅く訪れた成長期に体は大きくたくましくなり、太陽の光のような色をしていた頭髪はすっかり色を濃くした。そしてちょうど外見の変化が訪れるのと同時期に、誰もがラインハルトの元を去っていった。

「おい」

 低く太い声にはっと振り返る。いつの間にか父親がすぐそばに立っていた。今まで感じていたのとは別の類いの動揺にラインハルトは表情を厳しくするが、父親は息子の反応など一切気にすることなく強引に肩をつかんで部屋の中に押しやる。毎日早朝から夕方までひたすら粉をこねているパン職人である父の力は強い。今では身長はさして変わらないが、運動の習慣もなく不健康に痩せたラインハルトの足はよろめき、二歩、三歩と部屋の中に足を踏み入れた。

 部屋には父と自分、そして見知らぬ少年。状況を把握できずにいるラインハルトに、父親はぞんざいな口ぶりで言った。

「おい、この子どもを何日かおまえの部屋に置いてやれ」

 この子ども……それがソファに座っている少年を指していることは確認するまでもない。だが、自分の話をされているのは明らかであるにも関わらず少年は顔を上げることもなく、つまらなさそうに足元を見つめている。奇妙な子どもだ。

 いや、しかし今はそんなことは問題ではない。一体なぜ自分がこの見知らぬ少年を部屋に置かなければならないというのか。父が突然自分を呼び出した理由はわかったが、不信感は強くなるだけだ。

「……急にそんな無茶を言われても」

 ラインハルトは力なくつぶやくが、いったん口を開くと調子が出てくる。顔を上げると父の顔を正面からにらんだ。

「いきなり呼び出して、そんな話されても困るよ」

「何が無茶だ。何もずっとと言っているわけじゃない。子ども一人をほんの数日預かるくらい、大したことないだろう」

 相変わらず父親は強権的で、威圧的だ。「頼み」ではなく「命令」。しかも何かを命じるときに丁寧に理由を説明することなど決してしない。そんな態度がますますラインハルトの態度を硬化させるとわかっているにも関わらず、だ。

 見合いを強要されるよりはましだったかもしれない。だが、見知らぬ陰気な子どもを連れ帰り面倒を見るように言われて簡単にはいとうなずけるはずもない。

「第一、この子見たことない。親戚でもない知らない子をどうして……」

「名前はルーカス、十四歳。素行も良好と聞いているから面倒はないはずだ。わかったな」

「父さん!」

 そんなことを聞いているのではない。噛み合わない会話に苛立ったラインハルトはきびすを返してリビングを出て行こうとする。こんなばかばかしいやり取りに付き合うだけ時間の無駄だ。やっぱり素直に呼び出しに応じたのが間違いだったのだと後悔した。

 だが、ラインハルトが部屋を出たところで、階段を下りてくるぱたぱたと軽い足音が響いた。続いて、久々に聞く高い声が呼びかけてくる。

「ラインハルト! 帰ってたのね」

「姉さん」

 それは五つ違いの姉だった。同じ市内に住む男のところへ嫁に行って以来、ほとんど顔を合わせる機会もなかった姉が突然現れたので、驚いたラインハルトは思わず足を止めてしまう。

「父さん、相変わらず順序立てて話をしないからこじれるのよ。……ラインハルトもちょっと落ち着いて」

 姉はまず呆れたように父を軽くにらんだ。子どものころは息子であるラインハルトを猫かわいがりしていた父だが、自慢の息子が「できそこないの悪魔憑き」だと知って以降は当てつけのように姉を甘やかすようになった。姉の皮肉交じりの物言いにも体裁悪そうに眉をひそめるだけで特に言い返しはしない。

 姉はラインハルトの腕を取ると、廊下の奥に連れて行く。ラインハルトも彼女相手だと調子が狂ってしまい、手を振りほどくことはできない。

「知らない子ってわけじゃないわ。あの子、ルーカスはハウスドルフさんの息子さんよ。ラインハルトもハウスドルフさんのことは覚えているでしょう?」

 長いあいだ教会とは距離を置いているラインハルトだが、その名を聞けば人の良さそうな男の顔がぼんやりと頭に浮かぶ。確か十歳近く歳は上だったろうか、幼い頃によく遊んでもらった近所の男だ。だが、善人ではあるが野暮ったいあの男とルーカスは全然似ていない。いや、ラインハルトだって子どもの頃は父親とまったく似ていなかったのだから、そういうものなのだろうか。

「うん、うっすら覚えている。でも、どうして俺がその人の子どもを預からなきゃいけないんだよ。理不尽には変わりないだろ」

「それが、ハウスドルフさんと奥さん、交通事故で亡くなったの」

 姉はリビングの少年に配慮してか、ラインハルトの耳元に顔を寄せるとささやくようにそう言った。

「急なことだったからお葬式のお手伝いなんかで父さんと母さんもここ数日大忙しだったわ。で、やっと一通り終わったと思ったら、ルーカスを誰が引き取るかでひどく揉めているみたいなの」

 その言葉でようやく、美しい少年のまとう陰鬱な雰囲気の意味がわかった気がした。ルーカスはほんの数日前に父親と母親を同時に亡くしたばかりなのだ。

「週末には親族会議を開くらしいけど、それまであの子は居場所がないんですって。ハウスドルフさんにはお世話になっていたから預かってあげたいんだけど、わたしが子連れで帰ってきてるからどうしても部屋が足りなくて。そうしたら父さんが、ラインハルトがいるって言って、連れてきちゃったのよ。ほら、教会では良い格好したがるから」

「そんな……」

 そういえば二階からは姉の娘たちが遊んでいる歓声が聞こえてくる。

 姉の結婚相手に問題があるという話は前から聞いていた。金の話なのか女の話なのかラインハルトは知らないし、もしかしたら大したことのない問題を気の短い姉が騒ぎ立てているだけなのかもしれない。ともかく、夫婦けんかをするたび姉は実家に戻ってきて籠城し、数日もしくは数週間の後に夫が頭を下げてやってきてようやく家に戻ることを何度も繰り返している。

 両親が姉のわがままを許すのは、下手に諌めて「だったら離婚する」と言われることを恐れているからに他ならない。両親にとっては娘に離婚騒ぎを起こされて恥をかくよりは、ここで気を落ち着けてもらったほうがよっぽどましなのだろう。ラインハルトが同性愛者であることは周囲に知られていないとはいえ、教会と距離を置く不信心者だと思われていることは確かだ。息子のみならず娘まで教義に背く離婚をすればきっと両親は教会コミュニティでの立場をなくしてしまう。

 決して納得できる理由ではないが、ルーカスというあの少年を預かる役割が自分に回ってきた理由自体は理解した。確かに姉が二人の子を連れて戻ってきているのであれば、決して広いとはいえないこの家はソファまで含めていっぱいで、彼の寝る場所などないだろう。

 ラインハルトはちらりとリビングに目をやる。両親を突然亡くして、居場所をなくした少年。ルーカスはソファの上ですら居心地悪そうにただ小さくなって、つま先を眺めていた。まるでオスカルを失い、父親に見放されたときのラインハルトのように――。