いくら感情を押し殺して生きているとはいえラインハルトだって鬼ではない。陰鬱な様子でリビングにいる見知らぬ少年が事故で両親を失ったばかりだと知れば、哀れみに少しくらいは心を動かされた。
だが、自分の部屋に赤の他人――しかも否応無しにコンプレックスを刺激してくる外見を持つ少年を連れて帰ることには抵抗がある。期待に満ちた目で自身を見つめてくる姉には申し訳ないが、小さく左右に首を振る。
「ごめん姉さん。悪いけど俺は……」
そう言いかけたところで、思いのほかはっきりと鋭い声が背後から飛んできた。
「帰ります」
声変わりの予兆なのかほんの少し不安定ではあるものの、まだ高いままの少年の声。はっとしてラインハルトは振り返る。
「帰ります。僕は、ひとりでも大丈夫だから」
ルーカスは顔を上げることもせず、相変わらず自分自身のつま先を見つめながらもう一度繰り返した。声は震えることなく、むしろ凜として響いた。だが、表情がわからないから、それが心底からの言葉なのかただの強がりなのかを判断することは難しかった。
その場に居合わせた三人の大人は黙り込んでしまう。一度は言われるがままにこの家にやってきたルーカスが今になって帰ると言い出した理由は考えるまでもない。
父や姉がどのような説明をして彼をここへ連れてきたのかは知らないが、それはあまりにも考えなしの行動だった。いざ来てみれば、誰が面倒を見るかの押し付け合い。年端のいかない少年にこんな悲壮な言葉を強いているのは間違いなく自分たちだ。
いたたまれない空気の中、最初に口を開いたのは姉だった。
「……そうね、私たちが帰れば……」
姉が二人の娘を連れて夫の元へ帰れば部屋もベッドも空くからこの家の中にルーカスの居場所はできる。だが姉の歯切れは悪く、夫の待つ家に帰りたくない気持ちを押し隠すことは完全に失敗している。
ラインハルトは、背中に痛いほど父の視線を感じていた。そして、ひどく動揺していた。期待を裏切り続ける息子として、父への想いなどとうの昔になくしたはずだ。なのに射るように見つめられれば、落ち着かない気持ちでいても立ってもいられなくなる。
こんな些細なことでもしかしたらほんの少しでも父の信頼を、愛情を取り戻すことができるなら。今の自分を理解してもらうきっかけになるのなら――。
「……わかったよ。ただし週末までっていう約束は絶対だ」
ついにラインハルトは、敗北した。
ルーカスは目下の居場所が決まったことに対して特に嬉しそうな表情も、感謝する様子も見せずに黙っていた。嫌々ながらソファに歩み寄ったラインハルトが「ただし、俺の部屋は狭いから、ソファで寝てもらう」と言うと、かすかに頭を動かしてうなずいた。
「ありがとうラインハルト。……そうだ、今日は夕食くらい食べていくんでしょう。母さんが帰ってきたらすぐに食事にしましょう」
漂ったままの重苦しい空気を払うように、姉がことさらに明るい声色を出した。
ラインハルトは少しでも自分をかつての華奢な姿に近づけるため厳しく節制しているから、たまに実家に立ち寄ることがあっても基本的に食事はせずに帰る。もちろん父と一緒に食卓を囲むのが気詰まりだという気持ちも大きい。だが、今日はルーカスがいる。アパートメントには成長期の少年が好むような食べ物はないし、ここで食べさせて行けば料理の手間も省ける。
「じゃあ、そうするよ」
ラインハルトが誘いを受けると、姉は早速食事の準備に取り掛かろうとキッチンへ走っていった。
部屋には父とラインハルトとルーカスが取り残される。そして姉がいなくなったことを確認してからふっと歩み寄ってきた父が、ルーカスには聞こえないような低い声でラインハルトに囁きかける。
「おい、おまえの例の病気は治ったんだと信じているからルーカスを預けるんだからな。何より相手は子どもだ。妙なことを考えるんじゃないぞ」
「……っ」
全身の血が下がるような感覚。それは、父親に性志向のことで責められるたびに襲ってくる恐ろしい感覚だ。
ラインハルトに同性の恋人がいると知った日から数え切れないほど、父はこれに似た言い方で理想の息子を取り戻そうと試みてきた。「気の迷い」「子どもの気まぐれ」「思春期の過ち」「はしかみたいな一過性の病気」――そして、それら言葉はどれもひどくラインハルトを傷つけた。もちろんラインハルトだけでなく「大丈夫。あれはただの間違いだった。もう正常に戻ったよ」という期待する返事を受け取ることのできない父もまた、毎度失望しているのだろう。いずれにせよこういった確認行為を繰り返されるたび、父と息子の断絶は深まっていくばかりだ。
それにしても、今日の父の物言いはラインハルトにとって、これまでで一番と言っていいくらいに残酷に響いた。父がルーカスを自分に預けようとするもうひとつの目的。父は、哀れな知人の遺児をどうにかしてやりたいという善意よりもむしろ、ラインハルトが「正常」に戻っていることを確かめるためにルーカスを差し出そうとしているのだ。
捧げた子羊が数日間無事に過ごせば、息子は真人間。もしそうでなければ、悪魔。それはラインハルトにも、もちろんルーカスに対してもあまりに失礼で残酷な仕打ちだ。
「帰る!」
思ったより大きく低い声が出た。それは父の声とよく似ていて、気分が悪くなる。
「ラインハルト、急にどうしたのよ」
大きな声はキッチンにいる姉の耳にも届いたようで、驚いたようにリビングにやってくる。姉には父の残酷なささやきは聞こえていないから、弟の激昂の理由はわからないだろう。ラインハルトは姉の質問には答えず、大股でソファに歩み寄るとうつむいて座ったままのルーカスの腕を引き起こした。
「おい、行くぞ」
強い力で腕を引かれたルーカスがようやく顔を上げる。さらりと揺れた金色の前髪の隙間からのぞいた青い目が、ラインハルトを射抜いた。