Chapter 1|第5話

 ルーカスはソファの横に置いてあったカバンひとつを手に、そのままラインハルトの後を追ってきた。父は息子の反抗的な態度にあからさまにむっとした様子だったが、それ以上何も言わず、もちろん引き止めることもしなかった。

 どうしようもなく腹が立った。父親が何を考えて自分をここに呼び寄せたのかを想像できなかったどころか、うっかり機嫌を取るようなことまでやってしまった。まんまとルーカスを預かることに同意してしまった上に、ひどいやり方で侮辱されたのだ。

 結局父は何年経っても変わることはない。教会で懺悔して悔い改めて、病気が治った証拠に結婚でもして見せない限り父にとってラインハルトは悪魔に憑かれた失敗作の息子で、恥でしかないのだろう。そんなことわかっているのに、まだどこかで和解への期待を捨てきれず、父と完全に縁を切ることができない自分の甘さにも腹が立つ。

 ちらりと視線を斜め後ろに向けると、ルーカスは大人の歩幅ひとつ分遅れてついてきている。何が入っているのかわからないカバンはそれなりに重そうに見えるが、とてもではないが「持ってやろうか」と言い出すような気分にはなれなかった。

 アパートメントに帰り着くまで二人は一言も口をきかなかった。ルーカスが元々無口なたちなのか、両親の突然の死に動揺しているのか、それともラインハルトの決して友好的とはいえない態度を怖がっているのか、そんなことはどうでもいい。ともかくこの目障りな少年がペラペラと余計な口をきかないことは今のラインハルトにとっては唯一の救いに思えた。

「荷物は適当にそこへんに置いておけ。バスルームはあっち、好きなときに使っていい」

 ラインハルトはルーカスに最低限の言葉をかけてそっぽを向く。ルーカスは少し迷うような素ぶりを見せてから、肩にかけた重そうなカバンを部屋の隅に置いた。そのまま居心地悪そうに壁際で棒立ちを続けている。その存在だけでも疎ましい。ここで暮らし始めて数年間、誰一人招いたことなどないのだ。自分一人になれる唯一の安全圏であるはずの部屋に、赤の他人の子どもなど異物以外の何ものでもなかった。

 疲れ果てたラインハルトはすぐににでも一人になりたかった。顔だけ洗って寝室に引き上げようとするが、そこでルーカスの立っているあたりから空腹を知らせる小さな音を聞いた。そういえば、父の心ない物言いに激昂して食事をとることなしに実家を後にしたのだった。

「……ったく……」

 怒りと動揺でラインハルト自身はまったく空腹を感じていないが、成長期のルーカスの体は正直な要求を告げている。仕方がないのでソーセージを数本フライパンで温め、固くなりかけたパンと一緒に皿に乗せた。ラインハルトがキッチンで簡単な調理をしているその間も、ルーカスはずっと居心地悪そうに同じ場所に立ち尽くしたままでいた。

「……おい、飯だ。ぼんやりしてないでさっさと食え」

 声をかけると、さすがに空腹には敵わないのかのろのろと歩いてテーブルの横までやってくる。だが、テーブルの上に皿とカトラリーが一人分しか出ていないことに気づいて、ルーカスは一瞬戸惑うような表情を見せる。仕方なくラインハルトは言葉を足した。

「いいんだ、俺はもう食べたから」

 もちろん嘘だ。けれどルーカスは特にその先を追求することもなく素直に椅子に座るとナイフとフォークを手にした。

 改めて妙な子どもだと思う。家に連れてきてもらっても食事を出されても、礼のひとつも言わない。彼自身のことを話そうともしないし、ラインハルトについても何も聞こうとしない。ラインハルトですら初恋をこじらせる以前はもっと好奇心旺盛で怖いもの知らずで、おしゃべりだったことを思えば、いくら両親を失った直後で消沈しているにしてもルーカスの様子はどことなく奇妙だ。

 余計な口をきかずにいてくれるのはありがたいが、ずっと黙っていられるのも不気味だ。それに、数日とはいえこの狭い部屋で一緒に過ごすのだから最低限知っておかなければいけないこともある。

「おまえ、学校にはここからでも通えるのか」

 ラインハルトが訊ねると、ルーカスはナイフを動かす手を止めて小さいがはっきりした声で市内のギムナジウムの名前を口にした。確かラインハルトの実家よりも、このアパートメントからの方が近いくらいだ。ルーカスがあまりに無口で表情に乏しいので発達を疑うような気持ちも多少あったが、高等教育を前提としたギムナジウムに通っているということはきっとそれなりに賢くはあるのだろう。

「俺は仕事で朝が早いから、気にするな。おまえは学校に間に合う時間に勝手に起きて、適当に食べて、鍵だけ閉めて出ていけ。合鍵は一本しかないから絶対になくすなよ」

 棚の奥にしまっておいた合鍵を取り出してテーブルの上に置くと、硬いパンをもそもそとかじりながらルーカスはうなずいた。

「じゃあ、俺は疲れたから寝る。食ったら皿はそのまま置いておけばいい。眠くなったらそこのソファに――」

 そこまで口にしたところでラインハルトは考え直す。無理やり押し付けられたとはいえルーカスは一応は客人だし、親を亡くしたばかりの子どもだ。少しは親切にしてやる必要があるのではないか。それに、ルーカスがソファで寝るとなれば、先に起きて身支度をするラインハルトの立てる物音で嫌でも目を覚ますだろう。それはそれで目障りだ。どうせほんの数日なのだから、ベッドを明け渡してしまった方がストレスは少ないかもしれない。

「いや、寝室は奥だ。俺がソファで寝るから、食い終わったらあっちに行って適当に……」

「ソファでいい」

 ルーカスが言い返してきたのは意外だった。それは、自分が邪魔者扱いされていることに気づき「ひとりでも平気だ」と言い放ったときと同じ、はっきりとした口調だった。

 だが、せっかくの厚意をあっさりと否定されたとなればラインハルトも面白くない。むしろこの生意気な少年にどうしても言うことをきかせたくなってくる。

「言っただろう、俺は朝が早いんだ。ここで寝られたら目障りなんだよ」

 やや強い口調でそう告げると、ルーカスは顔を上げた。

 にきびやそばかすの一つもない、ひげの一本も生えていないつるつるした頰。うっすらと喉仏が主張を始めているものの、ちょっと力を入れて締め上げればポキリと折れてしまいそうな細い喉。ラインハルトがいくら嫉妬したところで取り戻せない、儚く美しい少年の姿をした彼は、表情ひとつ変えずに繰り返した。

「僕がソファで寝る。だってあんたみたいなでかい体、そのソファには収まらないだろう」

 その言葉にカッと頭に血がのぼった。

 ルーカスには悪気はないのかもしれない。いや、大抵の男は背が高いことや体格に恵まれていることをマイナスには捉えないから、言い方は失礼だがルーカスにラインハルトを傷つけるつもりはないのだろう。だが、ルーカスの遠慮ない物言いはラインハルトの心を深い場所まで抉った。

 父親とのやり取りで若干ナイーブにもなっていた。何より、ラインハルトにとって羨ましくて妬ましくてたまらない容貌をしたルーカスからコンプレックスを指摘されたことが惨めでたまらない。

「……勝手にしろ!」

 ものを投げたり、テーブルを叩いたりしなかっただけでも自分を褒めてやりたい。ラインハルトは吐き出すように一言だけ返すと、少年の視線から逃げるように足早に寝室へ向かった。