Chapter 1|第6話

 苛立ちを込めて、わざとらしく大きな音を立てて寝室の扉を閉める。大人気ないのはわかっている。だが、ぎゅっと唇を噛みしめた口の奥から湧き上がるのはどうしようもない悔しさだ。父親の侮辱だけでもひどくショックだったのに、それどころか情けをかけてやったルーカスからも、感謝どころか酷い言葉を投げかけられた。

 ――あんたみたいなでかい体。

 聞かなかったことにしようと思えば思うほど、少年の声は何度も頭の中に響きわたる。わかっている、そんなこと自分でもわかっている。でも。

ラインハルトはそっと部屋の隅にあるクローゼットに歩み寄る。その扉の裏には姿見が取り付けられているが、クローゼットを開くたびに忌まわしい自分の外見と向き合うのが耐え難くてラインハルトは布で鏡を覆い隠していた。

 ゆっくりと布をめくる。自分の外見は、あんな初対面の子どもからも指摘されるほどなのだろうか。小さく息を吐きながら改めて自らの姿と向き合う。

 鏡に映るのはなんの変哲もない若い男の姿だ。背は平均より少しばかり高く、肩幅もそれなりに広い。いささか痩せすぎではあるものの恵まれた体格と言って良いだろう。金色の髪に青い目、髭はいつだってきっちり剃ってある。顔立ちは特に秀でているわけではないが、全体的なバランスは悪くないし決して醜くはないはずだ。もしもこれが他人の姿だったならば、ラインハルトは及第点の評価を下すだろう。

 しかし、問題はこれが他人ではなく自分自身の姿であること。そしてラインハルトが求める理想の外見とは果てしなくかけ離れていることなのだ。

 物心ついた頃から容姿については褒められた記憶しかなかった。美しい金髪と青い瞳、人好きのする丸く薔薇色の頬をしたラインハルトはしょっちゅう女の子と間違えられた。保守的な父は息子が女のような外見をしていることを表面上は嫌がっていたが、教会で「天使のようだ」と誉めそやされればそれはそれで悪い気はしなかったようだ。「もっと鍛えろ」「男らしくしろ」と説教をしながらも、誰かがラインハルトの姿を褒めるのを聞けばまんざらでもない顔をした。

 幼少の頃から仲の良かったオスカルも、ラインハルトの外見を褒めてくれるうちの一人だった。黒い髪に黒い目をした、どちらかといえばエキゾチックな顔立ちのオスカルは周囲の子どもより際だって賢く、少しだけ大人びていた。ラインハルトはそんなオスカルのことを尊敬して憧れていたから、オスカルから友人として選ばれ彼のそばにいられることは喜ばしく誇らしかったし、そのオスカルから容姿を褒められれば幸せな気分になった。戦時中には疎開で離ればなれになった時期もあったが、だからこそ焼け野原になったウィーンで彼と再会できたときの喜びもひとしおだった。

 金色の髪や細く長い手足、少女のように華奢な姿をオスカルから褒められることをくすぐったく感じるようになったのは、いつ頃だったろう。いつからかラインハルトはそれが恋心だと自覚した。

 小学校を卒業した後、賢いオスカルは高等教育の前段階であるギムナジウムに、一方のラインハルトは職業技術を学ぶための実科学校へ進学した。学校が離れ離れになったことで一緒に過ごす時間は短くなったが、離れれば離れるほどオスカルを思う気持ちは大きくなった。だから、拒絶されることを覚悟しながら恋心を打ち明けたときに、オスカルから「僕も君が好きだ」という言葉を返してもらえたときは天に昇るような気持ちになった。そして夢のような日々は一年ほど続いたのだった。

 十四歳のときに二人の関係がラインハルトの父親にばれた。大それたことをしたわけではない、ただ抱き合っていただけだ。だが父は怒り狂って二人の仲を引き離しにかかった。一度は別れたふりをしてごまかしたものの、結局はその後も隠れて逢瀬を重ねていたことがばれた。ラインハルトの父はオスカルの両親に息子たちの不健全な関係について話し、オスカルは間もなくスイスの寄宿学校に転校させられた。

 しばらくはこっそりと手紙のやり取りをしていた。だが、うら若い少年たちにとって物理的な距離はそのまま心の距離に直結する。二週間に一度届いていた手紙は三週間に一度になり、やがて月一度になった。そしてちょうどその頃、ラインハルトは遅い成長期を迎えた。

 体の節々が痛み、一晩寝て目を覚ませば何センチか背が伸びているような気がした。のど仏が隆起して目立つようになり、首が太くがっしりとして、肩幅が広くなる。小枝のようだった手足もどんどんたくましくなる。つるつるした頬に髭が生えるようになり、美しかった金髪はどんどん暗い色に変わっていく。それは、まるで悪夢のようだった。出会う人ごとに「ちょっと見ない間に男の子らしくなったわね」と言われ、夜にそっとベッドの中で泣いたことも数知れない。

 同級生の男子生徒たちには程度の差はあれすでに訪れていた変化だが、ラインハルトはなぜかそのような成長は自分には永遠に縁のないものだと信じ込んでいた。自分だけは永遠に、オスカルが気に入って、褒めてくれた美しく儚げな少年のままでいられるのだと。

「写真を送ってくれないか」

 そう書かれた手紙を見た瞬間、背中がすっと冷たくなった。

 おそるおそる鏡をのぞき込むと、そこにオスカルが愛してくれた少年の姿はなかった。茶色い髪を持ち低い声で喋る、見知らぬ男がこちらを眺めていた。ラインハルトはその男を殺してやりたいと思った。

 写真を送ればオスカルに嫌われてしまう。だが写真を送ることを断るうまい理由を思いつくこともできず、ラインハルトはオスカルへの返事を書けなくなった。悲しいことにラインハルトからの返事が途絶えればそれっきりで、二度とオスカルからの手紙が届くことはなかった。

 あのとき写真を送っていたらどうなっていただろう、と未練がましく考えることは今もある。オスカルは変わってしまった自分を受け入れてくれただろうか。いや、そんなことはありえない。そもそもラインハルトが想うほど、オスカルはラインハルトのことを想ってくれてはいなかったのだ。だって、たった一度返事を出さなかっただけで手紙のやり取りは途絶えてしまった。

 幼い恋がラインハルトにもたらしたのは喪失と傷だけだった。父との間には同性愛の発覚によりどうしようもないしこりが残った。失恋の悲しみも完全には癒えていない。そして何より、成長した自分自身への嫌悪が今も耐えがたくラインハルトを苛んでいる。

 大人の男の、大人の体。当たり前のそれが、どうしても憎らしく苦しい。だから少しでも苦しみを減らすためにラインハルトは髪をかつてのような金色に染め、食事を制限して枝のように痩せた体を維持しようとしている。そんなこといまさら何の意味もなさないのと知りながら。

「くそ、あのガキ。何も知らないくせに」

 羨んでも羨んでも手に入らないものを手にした少年からの残酷な言葉を思い出し、ラインハルトは思わず拳を振り上げる。小さな音を立てて薄い鏡が割れ。床に破片が散らばった。