Chapter 1|第7話

 ラインハルトは薄いカーテン越しに差し込む朝の光と、ひりつく右手の甲の痛みで目を覚ました。なぜそこに傷があるのかがわからず戸惑うが、ベッドから立ち上がり部屋の隅に散らばる鏡の破片を目にして昨晩のことを思い出した。だが朝から悠長に掃除をしているような暇はない。とりあえず惨状からは目を背け、鋭利なかけらを踏まないよう気をつけて着替えを取り出すとそっと寝室を出た。

 ルーカスはいるだろうか。扉を開ける瞬間、かすかな不安に襲われる。

 彼の昨晩の発言はあまりに無神経なものだったが、それに対するラインハルトの態度も露骨だった。もしかして拗ねて出て行くようなことはしていないだろうか。もしそんなことになれば責任問題だ。

 だが、おそるおそる近寄ったソファの上には、体を丸めるようにして眠る少年の横顔があった。思わず安堵の息をこぼしながら、ずれて大半が床に落ちている毛布の端を手に取るためしゃがみこんだ。

 近くで見ると、思いのほかその表情は幼く見える。表情に乏しいのでどこか老成したような印象を受けるもののルーカスは年齢の割に小柄だ。もっとも手脚の長さを見るに、ラインハルトと同じように成長期が遅いだけであと数年経てば立派な体格の男になっているのかもしれないが、ともかく今目の前にあるのは子どもの寝顔だった。

 丸めた身体の胸元でぎゅっと手を握りしめ、夢でも見ているのかときおりまつ毛を震わせる。陶器製の人形のように整った顔に思わず目を奪われていると、ふとルーカスの唇が動いた。

「ママ、パパ……」

 ぎゅっと閉じられた目尻にかすかに涙がにじむのを見て、ラインハルトは息を飲んだ。

 両親を失ってほんの少ししか経っていない。ルーカスはやはり突然の喪失に傷ついているし、打ちのめされているに違いない。まだまだ親が恋しい年頃なのだろうと思えば哀れみも大きくなり、そっと毛布をかけ直してやる。

 ルーカスへの同情は湧きあがる一方で、彼の言葉や外見にコンプレックスが刺激されることもまた事実だ。大人気ない態度を取るのはやめようと思いながらも、せめて手の甲の痛みが和らぐまで、例えば今日の夕方までは顔を合わせたくない。今ルーカスが眠っていてくれるのは幸いだった。寝息を立てる少年を起こさないよう足音を忍ばせて身支度を調え、ラインハルトは家を出た。

 普段は淡々と仕事をこなすラインハルトだが、この日は落ち着かない気持ちで暇があれば時計を眺めていた。ルーカスはちゃんと一人で起きて学校に行っただろうか。慣れない場所からの通学で迷うことはなかっただろうか。険悪な空気を感じているはずだが、ちゃんと帰ってくるのだろうか。慣れ親しんだ気ままな一人暮らしに異物が入り込んでいることに違和感を覚える反面、貴重な壊れ物を預かってしまった責任感は時間とともに増していくようだった。

 窓から顔を出し、にぎやかに声を上げはしゃぎ回る休み時間の子どもたちを眺める。ここの子どもたちよりはルーカスの方がいくらか年上だ。でも、その数年分の年齢差が一体どの程度のものなのか、ラインハルトにはもはや思い出すことも想像することもできない。

 十四歳の頃の自分はいっぱしの大人のつもりでいたはずだ。愛も恋も知った気で、親や教師から子ども扱いされれば無性に腹が立った。でも、いざ自分が大人になってしまえばあの頃の気持ちなどあっさりと忘れてしまう。それどころか今のラインハルトは同世代の大人ともうまくつきあえずにいるのだ。年齢の離れた子ども――しかも両親を亡くしたばかりで心を閉ざしている相手と一つ屋根の下で暮らすなど、ほんの数日のことだとしても簡単なはずがない。

 ルーカスの存在を強く気にしながら、同時に彼と顔をあわせるのが怖い。いつもより職場を出るのが遅くなったのはそんな憂鬱の表れだったのかもしれない。残業をする教員のための通用口以外の全ての出入り口や門の施錠を確認してから校舎を出る頃にはすっかり日が暮れていた。

 雲に隠れて月が見えない暗い夜だ。それどころかちょうど裏門を出たところにあるはずの街灯が切れていた。数メートル歩いたところで、足元に大きな塊があるのに気づいてラインハルトは思わず声を上げる。

「うわっ」

「きゃあっ」

 すんでのところで避けることに成功したが、それは歩道にしゃがみこんだ女性だったようで彼女の側も小さな悲鳴を上げた。

 他人は苦手だ。女性ならばなおさら。しかし夜の闇の中で冷たい歩道にしゃがみこんでいる人間を放っておくことをためらう程度の常識はある。ラインハルトは渋々彼女へ声をかけた。

「……どうしたんですか?」

「なんでもないわ。ちょっと転んだだけ」

 しかしどう見ても「ちょっと」という感じではない。人に見咎められた気まずさからか彼女は慌てて立ち上がろうとするが、力が入らないのか足首がぐにゃりと曲がり再び地面にへたり込む。その表情には苦痛が浮かんでいた。

 余計なところに通りかかってしまった。昨日といい今日といい、なぜこんな目にばかりあうのだろう。心の中で舌打ちをするが、半泣きで足首をさする彼女に本心を悟られないように手を差し出した。

「つかまってください。それでも辛かったら、嫌かも知れませんが背中に」

「……ありがとう」

 柔らかく小さな女性の手が、ラインハルトの大きな掌を掴む。ぐっと力を込めて引っ張ると、彼女は顔をしかめながらもなんとか立ち上がった。支えてやれば少しずつであれば歩くこともできそうだが、手を離せばきっと崩れ落ちてしまうだろう。とりあえず大通りまで連れて行って、そこでタクシーを拾うことにした。

 よろめく彼女を支えようとすると、どうしても体同士が密着して顔が近づく。家族以外の女性と触れ合ったことのないラインハルトは内心動揺していた。細い骨格や柔らかい体はまるで自分とは別の生き物のように思える。コロンでもつけているのか、彼女からは甘くて良い匂いがした。醜い男である自分には決して似合わない華やかな香り。

 彼女はクララと名乗り、ラインハルトが働く学校で今年から教えはじめた新任教員なのだと言った。ラインハルトは山ほどいる教師ひとりひとりの顔と名前を覚えてはいなかったが、クララの側はラインハルトを認識していたようだ。

「あなた、たまに見かけるわ。用務員さんでしょう」

 付き添って乗り込んだタクシーの中で彼女は言った。ラインハルトは「ええ」とうなずく。すると彼女は人懐っこい顔で笑った。

「あまり人と話しているのも見たことがないから、怖い人かと思ってた。親切なのね」

 こういうときどう返事をすべきなのかわからない。何しろ今この瞬間もラインハルトは、彼女を助けざるを得なくなった自分のタイミングの悪さを苦々しく思っているのだ。クララの言葉にうなずけばそれは嘘になるし、だからといって否定するのも妙に思われるだろう。仕方ないので話題を変えた。

「医者に行かなくて大丈夫ですか」

「少し様子を見るわ。姉と暮らしているから、痛みがひどければお医者様を呼んでもらう」

 結局ラインハルトは、タクシーからクララを降ろしてアパートメントの三階にある部屋の前まで運んでやった。いくら小柄な女性とはいえ人一人背負って階段を登るのは重労働で、彼女を降ろす頃にはすっかり息が上がってしまっていた。

 ドアを叩くと中から出てきたクララの姉は、足首を痛めた妹の姿にまず驚き、それから額に汗をにじませたラインハルトに深々と頭を下げた。

「ご迷惑をかけてすみません。よければお礼にコーヒーでも」

「遅い時間にこんなところまで送ってもらって、本当にごめんなさい……」

 改めてクララに謝られたところではっとして胸ポケットから安物の懐中時計を出した。彼女をここまで送り届けるのに思った以上に時間がかかってしまい時刻はもう九時過ぎだった。頭の中にルーカスの顔が浮かぶ――とっくの昔に帰宅しているはずだ。

「いえ、あの。お気持ちだけで結構です。お大事に」

 慌てて階段を降りてバス乗り場を探す。書き置きも連絡もなしにこんな時間になってしまった。もちろん相手はもう十四歳なのだから留守番くらいできるだろう。しかし今朝方目にした寝顔とうっすらと浮かんだ涙がやけに気になる。ラインハルトはただ帰路を急いだ。