Chapter 1|第8話

 アパートメントの前までたどり着いたところで、自分の部屋の窓を外側から見上げる。窓は暗く明かりは灯っていない。ルーカスはまだ戻っていないのだ。

 十四歳だった頃のラインハルトがこんな遅くまで帰宅しなければ、きっと父親からこっぴどく叱られ、ひとつかふたつはぶたれていただろう。今も世の中の常識はそんなに変わってはいないはずだ。

 やっぱり、昨日の態度がまずかったか。ルーカスは歓迎されていないことを気にして出ていってしまったのだろうか。ラインハルトの背筋を冷たいものが伝う。

 ここに戻ってこないのだとすれば、ルーカスの行き先は? ラインハルトの実家に行き、父や姉に昨晩の険悪なやりとりについて申し立てているだろうか。いや、それは考えづらい。ルーカスはラインハルトに心を許していないのと同様に、父や姉にも懐いている様子はなかった。だったら家か。両親のいなくなった家にひとりで戻ったのだろうか。

 ここまでだって急いできたのに、矢も盾もたまらずラインハルトはただ焦る気持ちに背中を押されて階段を駆け上る。痩せた体は悲鳴を上げそうになるが、一気に自分の部屋のある階までたどり着きドアノブを握る。

 意外にも、ドアノブはするりと何の手応えもなく回った。合鍵を渡しているにも関らずルーカスは施錠もせずに出て行ったのか。まあ怒るほどではない。盗まれて困るような価値のあるものはこの部屋には何ひとつないのだから。

 ギィ、と軋む音を立て扉が開く。ひんやりと、人のいない部屋特有の空気がラインハルトの肌に触れた。どうしよう。預かった子どもが、一日も経たないうちに逃げ出してしまうなんて。もしもルーカスの身に何かが起こればラインハルトの責任になるだろう。

 数歩進んだところで部屋の照明スイッチに手をかける。単調な日々を繰り返す中で、暗闇の中でも迷うことない程度にその動きは身体化されている。パチリと小さな音がして、数秒のブランクの後に暗闇がぼんやりとオレンジ色の灯りで照らされると、ラインハルトは思わず小さな叫び声をあげた。

「うわっ」

 驚きの理由は――無人だと思っていた室内に人影があったからだ。

 気配を殺すようにソファの隅に小さく丸くなっている少年。立てた膝に顔を埋めているので金色の後頭部しか見えないが、それがルーカスであることは間違いなかった。ルーカスはラインハルトの態度に腹を立てて出て行ったのではなかった。ただ明かりもつけずに暗い部屋で、ひとりうずくまっていただけだ。

「おい、何だよ鍵もかけず明かりもつけずに。驚くじゃないか」

 驚き、安堵、そして心配が無駄に終わったとこによる微かな苛立ちの混ざった口調で呼びかけると、ルーカスはゆっくりと顔をあげた。

 突然明るくなった部屋で、眩しいのか金色のまつげに覆われた目は眇められている。その表情にラインハルトは責められているような気持ちになる。もちろんルーカスが本当に帰宅の遅いラインハルトに不満を持っているのか、それとも罪悪感からくるただの被害妄想に過ぎないのかは自分でもわからない。だからできるだけ平静を装って、何も感じていないような態度を取ろうとした。下手なことをしてこれ以上関係が険悪になるのはお互いにとって良いことではない。

「悪かった、仕事で遅くなって。腹は減って……」

 いないか、と尋ねようとしたはずだった。

 しかし白熱灯の下、はっきりと顔をあげてラインハルトを見据えてくるルーカスの青い瞳に思わず言葉の続きを失った。ルーカスは怪訝な顔をしていた。そして、ゆっくりと立ち上がりラインハルトのすぐ目の前まで歩いてくると、一度、二度、鼻を鳴らした。

「甘い匂いがする」

 その言葉に、ラインハルトは動揺した。

 ラインハルトはただ行きがかり上しかたなく、怪我をした女性を助けて家まで送ってやっただけだ。お茶の一杯をご馳走になることもせず、この少年のことを気にして急いで帰ってきた。後ろめたさなど微塵もないはずなのに、返事は妙に言い訳じみたものになる。

「ああ……転んだ女性を起こしたときに服についたのかもしれない。脚をくじいていたから家まで送って、それで帰りが」

「ふうん」

 ルーカスは微かな甘い香りを堪能するかのようにもう一度息を吸うと、気まぐれな猫のようにラインハルトから離れ再びソファに座り込んだ。そして、言う。

「別にいいのに」

「は?」

 意味がわからなかった。一体何が「別にいい」のか。しかしその声色に拗ねたような響きがこもっていることはわかった。ルーカスはラインハルトの帰宅が遅くなったことを、面白くないと感じているのだ。

「僕がここにいるからって別に無理して戻ってこなくても。あんたにも予定があっただろうし」

「いや、だからそういうわけじゃないって」

 別人のように饒舌なルーカスに、ラインハルトは気圧される。

「昨日も言ったけど僕はひとりだって平気だった。あんたの父親がお節介を焼いただけだ。それにどうせ僕は施設に行くことになるんだし」

 突然出てきた「施設」という言葉に耳を疑う。そんな話は初耳だ。

「おまえ何か勘違いしているんじゃないか? 今週末に親族が話し合うんだろう?」

 昨日ルーカスを押し付けられたとき、父は確かに「週末にはルーカスを誰が引き取るかについて親族会議が持たれる」と言っていたのだ。だから、ラインハルトがこの少年を部屋におくのもほんの三日程度なのだと。

 だが、ルーカスはうなずく代わりに唇の端を歪めた。暗さを感じさせる、妙に大人びて見える笑い方だった。ラインハルトにとって初めて目にするルーカスの笑顔はひたすら不穏に見えた。

「ラインハルト、本当に何も聞かされていないんだね」

 もちろん、ルーカスがラインハルトの名を呼ぶのもこれが初めてだ。

 ラインハルトにとって嫉妬の対象である美しい少年は、その容姿とはそぐわない歪んだ表情で言った。

「僕は死んだ両親とは血の繋がりはない。戦争で身寄りをなくしたところを、親切で信心深い夫婦に運良く引き取られた孤児だ。だから話し合いの結果なんて待つ意味もない。誰も引き取りたくないんだよ、僕のことなんか」

タイトルとURLをコピーしました