Chapter 1|第9話

「孤児……?」

 何の心の準備もしていないところに、突然の告白。ラインハルトはどう反応すれば良いのかわからず口ごもった。

 昨日からすでに両手の指では足りない回数繰り返した後悔が、またひとつ新たに積み重なる。父も姉も、ルーカスにそんな事情があるなんて教えてくれなかった。確かに父の物言いに腹を立てて、ゆっくり話をする間も無く実家を後にしたのは自分だ。だからといって、こんな大事な情報を伝え忘れるなんてあんまりだ。

 確かに冷淡だとは思った。親類が突然事故死して未成年の一人息子が取り残された状況だったとして、普通その子どもを赤の他人に預けようと考えるだろうか。しかも姉は声を潜めてラインハルトの耳に「誰がルーカスを引き取るかで親類たちが揉めている」と囁いたのだ。その理由は、ルーカスがハウスドルフ夫妻の地の繋がった子どもではないからなのだろうか。

「だから別に、あんたも僕のことなんか気にしないで普段どおりに過ごしていいんだ。最初から邪魔だって顔に書いてたしね」

 ルーカスは細く長い脚をソファの上に持ち上げて、再び膝を抱くような姿勢を取った。かすれ気味の声には相変わらず拗ねた響きが混じっていて、そこでラインハルトはようやくルーカスの真意に気づいた。

 ――もしかして、寂しかったのか。

 今朝方の寝顔と小さな寝言からすれば、きっとハウスドルフ夫妻はルーカスのことを大切にしていて、ルーカスも夫妻に懐いていたのだろう。あの人の良い男とその妻だ、引き取った子どもに十分な愛情を注いだことは不思議でもなんでもない。だが、養親を失い、血の繋がりがないことを理由に親類からは厄介者扱いされ、たらい回しにされた挙句連れてこられた先でも冷たくあしらわれた。

「……悪かった、何も知らなくて」

 素直な謝罪の言葉が唇からこぼれた。暗闇で膝を抱えて、ルーカスは何時間ここでひとりきり座っていたのだろう。ルーカスが出て行ったのかもしれないとラインハルトが気を揉んだのと同様に、彼ももしかしたらラインハルトが戻ってこないことを不安に思っていたのかもしれない。

「別に、悪いなんて言う必要は……」

 ルーカスはもごもごとつぶやきながら顔を膝に埋める。寂しさや不安をラインハルトに気取られてしまったことが気まずいのか、そのまま押し黙ってしまった。

 ラインハルトはゆっくりとソファに歩み寄りルーカスの隣に腰掛ける。膝を抱えた少年は実際以上に小さく弱々しく見えて、ラインハルトは思わず手を伸ばして金色の髪を撫でる。触れられたことに驚いたように肩が一瞬ひくりと震えるが、手が振り払われることはなく、だからラインハルトはどこで止めて良いのかわからず、しばらく小さな頭を撫で続けた。

「……子ども扱いしないでよ」

 さんざん撫でられてから、ようやくルーカスは不服そうに口を開いた。それは心底不快というよりは、甘えや媚びを感じさせるまさしく子どもっぽい声色で、重々しい空気は完全には消えていないにも関わらずラインハルトは思わず吹き出しそうになった。

「何がおかしいんだよ」

「いや、おかしくなんかない」

「嘘だ。だって、今笑っただろ?」

 ルーカスは唇を尖らせてラインハルトを睨んだ。その仕草や物言いこそが子どもっぽいのに、本人は一切自覚していないのだろう。しかし正面から幼さを指摘するとますますルーカスが腹を立ててしまうことはたやすく想像できる。自分だって、彼の年齢であれば同じように反応するだろう。

 さて、この少年の青くさいプライドを傷つけずにどうやり過ごすか、ラインハルトは真面目に考えようとしたが、結局その必要はなくなった。静かな部屋にキュルル、と小さな音が響き、はっとしたようにルーカスが顔を赤らめたのだ。そういえばもう夜も十時近い。成長期まっただ中の少年が腹を減らすのは当然だし、ルーカスの腹の鳴る音につられたようにラインハルトも空腹感に襲われる。

「とりあえず、何か食うか」

 ラインハルトが立ち上がると、ルーカスは小さくうなずいた。

 予想外の出来事のせいで買い物にも寄れなかったから、食料は限られている。昨日と同様ルーカスのためにソーセージを焼いて、茹でた野菜と一緒に皿に盛り付けてからパンと一緒にテーブルに出した。肉と脂の焼ける良い匂いに反応して口の中に唾液が湧き上がる。自分の分のソーセージも焼こうかと心が揺れるが、食卓にやってきたルーカスの細い体躯を見たラインハルトは正気に戻り、自分の皿には茹で野菜だけを載せた。

「それだけしか食べないの?」

 案の定ルーカスは、二人の皿を見比べて怪訝な表情を見せる。

「ああ。職場でお茶をしたから。腹が減ってない」

「ふうん」

 それ以上追求することなく、ルーカスは皿の中身をあっという間に平らげた。すっかり固くなった残り物のパンまでも食べてしまい、それでもまだ満足いかない顔をしている。仕方なくもう一本ソーセージを焼いてやった。

「やっぱり、食いすぎなんじゃないか?」

 物欲しそうな顔に負けて食べさせるだけ食べさせてから不安になった。 後で腹が痛いとか、気分が悪いとか言われても困る。

「大丈夫だよ。僕、教室で三番目に背が低いんだ。だからたくさん食べて大きくなって皆を驚かせてやりたくて」

 ラインハルトにとっては失いたくなくて、今も失ってしまった事実を認めきれずにいる細くしなやかな体を、ルーカスは捨て去りたがっている。もったいない、という言葉はすんでのところで心の奥にしまいこんだ。

「心がけはともかく、後で具合悪いとか言われたら俺が困るよ」

 そんなに大きくなりたいのならこの体をやるから、その金色の髪を、細い肩や腰を、小枝のような手脚を俺にくれと、馬鹿みたいな考えで頭をいっぱいにしながら、なんでもないふりで空っぽになった皿を取り上げるとシンクに持って行く。

「でもさ、大きくなったら、誰にも迷惑かけずにひとりで暮らせるんだろ」

 背後から聞こえてくる声は軽さの中にどうしようもない深刻さを漂わせている。

 戦災孤児なのだと言っていた。終戦時は五歳そこらだったはずだ。産み育ててくれた両親を失い、その後幸運にも引き取ってくれた養父母も再び失い――ルーカスの中にも傷や闇がある。そしてルーカスは彼なりのやり方で、救われたいと思っているのだろう。

 ラインハルトが「愛されていた頃の自分」の姿に固執しているのと似た情熱で、ルーカスはもしかしたら「ひとりで生きていける自分」に狂おしく憧れているのかもしれない。