翌日は土曜日だった。ラインハルトは普段と同じように仕事に出かけルーカスは学校へ行く。昨日と違うのは、身支度の物音で目を覚ましたのか、ラインハルトがリビングの扉を開けるとルーカスもソファから体を起こしたことだった。
寝起きの少しぽやんとした表情と、いくらか跳ねた金色の髪。一人暮らしが長くめっきりその言葉を口にすることがなくなっていたからか「おはよう」と口にすることがなんだか気恥ずかしいように思え、代わりにラインハルトは「おまえはまだ起きる時間じゃない」と、素っ気なくつぶやいた。
「でも、もう目が覚めちゃったから」
目をこすったルーカスが、一瞬ラインハルトの顔を凝視した気がした。それはほんの刹那のことだったが、はっとしてラインハルトはバスルームに走る。
いけない、気を抜いた。だってまさかルーカスがこのタイミングで目を覚ますなんて思わなかったから。こんな顔、こんな醜い姿、誰にも見せたくなかったのに。
洗面台に備えつけられた鏡には、うっすらと髭の生えた自分の顔。ルーカスがじっと見てきたのはこれなのかもしれない。そう思うと、相手が子どもであるにも関わらず、いや、つるつるとした顔の子どもだからこそなのか、恥ずかしさにいたたまれなくなり、剃刀を取り出し慌ててシェービングクリームを泡立てた。
髭を剃っている最中、扉の外側からルーカスが声をかけてきた。
「ねえ、トイレに行きたい」
「バスルームは今使ってる。終わったら声をかけるから、ちょっと我慢しろ」
その声が苛立っているのを敏感に感じ取ってか、それ以上何も言わずに不承不承立ち去る足音が聞こえた。
おかしいのは自分だとわかっている。成人して、いい大人の男になって、それでもまだ華奢で中性的な少年の外見に執着しているなんてまともではない。体がたくましくなるのも、髭が生えるのも当たり前のことで、だからこそそれを恥じているなんて誰にも言えない。でも世の中の「当たり前」をいくら自分に言い聞かせたところで今の自分の姿を受け入れる気にもなれないのだ。
慌てていたので手が滑って、目立たない場所ではあるが顎の下を切った。つ、と刃先が肌に食い込む感触は妙にゆっくりと感じられた。しまったと思い慌てて手を引くが一瞬遅れて肌の上に小さな赤い水玉が浮き、それはポタポタと洗面台に落ちた。
「どうしたの?」
不機嫌な顔で、タオルで顎を押さえながらバスルームから出てきたラインハルトの姿を見て、ルーカスは今度はあからさまにぎょっとした表情を見せた。タオルから染み出すほどの出血ではないが、さっき垂れた血が着替えたばかりのシャツに赤い染みを作っている。
「何でもない」
「でも、血が」
ルーカスは血を見ることに慣れていないのか、顔を青くしている。たかが剃刀で少し切ったくらいで大げさな反応をされるのにも戸惑い、ラインハルトは手で彼を追い払う仕草をする。
「ちょっと切っただけだから、すぐ止まる。ほら、トイレ行きたいんだろ。さっさと行けよ」
だが、少年は食い下がった。
「消毒液と絆創膏は?」
「そんなもの――」
ない、と言おうとしたが、実際はキッチンのどこかに簡易的な救急箱がある。いつだったか母か姉にもらったもので、ほとんど使わず放ってあるので中身が今も使い物になるのかはわからないが。
髭剃りの失敗でルーカスに絡まれるのも面白くはないが、だからといって開きやすい刃物の傷をそのままにしていたら、血が止まっても何かの拍子にまた傷口が開いてしまうかもしれない。これ以上汚したら替えのシャツもなくなってしまう。
「確か、キッチンに」
渋々ラインハルトが答えると、ルーカスは目覚めの尿意のことも忘れ去っているのかキッチンの小さなカップボードを漁りはじめる。やがてかすかに見覚えのある十字マークのついた箱を手に戻ってきた。ラインハルトが手を伸ばして救急箱を受け取ろうとすると、ルーカスはそれを渡す代わりにソファを指す。
「座って」
箱の中から消毒液や脱脂綿を取り出すルーカスの姿に、ようやく彼がラインハルトの手当をしようとしているのだと思い当たる。
「いいよ、自分でやるから」
再び手を伸ばすが、「だって自分じゃ良く見えないだろ」とルーカスは引き下がらない。確かに顎の裏側は鏡を使っても自分では見辛い場所だ。だからといって、そしていくらさっき髭は剃ったとはいえ、他人に近くから顔をのぞかれることには抵抗がある。
だが、強情なルーカスとここでけんかをしていればますます家を出る時間は遅くなり、下手をすると遅刻してしまうかもしれない。職場ではいい意味でも悪い意味でも目立たないようにしている。遅刻を避けたいラインハルトは渋々ルーカスに従った。
ラインハルトはソファに腰掛けた。隣に座ったルーカスは神妙な顔で脱脂綿に消毒液を染み込ませると、ラインハルトに顎を上げるように言う。血は止まりかけているが、顔を動かすと傷口も動くのか、嫌な痛みが走った。
「……っ」
脱脂綿が肌に触れると、傷口に火がついたような痛みが走った。思ったよりはるかに痛い。でも、目の前のルーカスにそれを気取られたくなくて、ラインハルトは声を殺した。
目を落とすと、すぐ近くに神妙かつ真剣そのものの美しい顔がある。たかが消毒程度でまるでえ難しい手術をする外科医になったつもりであるかのように、ルーカスはきゅっと唇を一文字に引き結んでラインハルトの傷口を脱脂綿で拭った。
近すぎる距離に気まずさを感じるのはお互い様なのかもしれない、ラインハルトは何も言わず、ルーカスも何も言わず、しゅわしゅわと消毒液が傷口に触れて泡を出す音がやたら大きく聞こえた。
ルーカスは時間をかけてまんべんなく傷口を消毒してから、同じくらいの丁寧さでそこに肌色の絆創膏を貼り付けると、出来栄えに満足そうな笑みを浮かべた。
「よし、できた。正面からだと怪我してるのもわからないよ、きっと」
「別にわかってもわからなくても、そんなのどうでもいい。遅刻しそうだから行かなきゃ」
ラインハルトは礼も言わずに慌ただしく部屋を出る。だが、信号待ちの間、商店のショーウィンドウに映った自分の顔をちらりと見ると、確かにルーカスの絆創膏貼りの腕前はなかなかのものだった。鏡を見ながら自分でやったら、もっとずれたりよれたりして、こう上手くはいかないだろう。
一言くらい何か感謝の言葉を残してくるべきだったかと後悔がよぎる。でも、そもそもルーカスがいなければ慌てて髭を剃ろうとして傷を作ることもなかったのだ。相反する考え、感情がもやもやと胸の中にわだかまり、ラインハルトは改めて思う。他人と暮らすのは簡単ではない。