Chapter 1|第12話

 ラインハルトは何とか業務開始時間に遅れることなく職場に滑り込んだ。順番に門を開けて校内を見て回っていると、ようやく心が落ち着いてきた。

 どうせこの慌ただしさも明日までだ。明日は日曜日。ルーカスの親類が彼の処遇について話し合うことになっている。ルーカス自身は妙に悲観的になっているが、信心深いハウスドルフ家の親類が、いくら養子だからといってルーカスを施設にやるような世間体の悪いことはしないだろう。小さな子どものように手がかかるわけでもなく、ギムナジウムに通っているのだからそれなりに賢い少年だ。ほんの数年間家においてやるくらい難しい話ではない。

 そして来週からはラインハルトの生活もいつも通りの静けさを取り戻す。空腹に耐えながら人のためにソーセージを焼いてやる必要もなくなるし、寝起きの顔を見られたことに動揺して剃刀で顔を切るようなこともなくなる。実に待ち遠しい。

 そんなことを考えながら午前の仕事を終えた昼過ぎ、用務員室の扉がノックされた。ここを訪れるのは、たいてい教員の誰か。それも、用務員に頼むような仕事が生じたときだけだ。要するに、ろくな案件ではない。

 この間は野犬が入り込んで花壇を荒らしたのを修繕する用事だった。その前は、男子トイレの配管が壊れて汚水が漏れ出した後処理。今日は一体どんな用だろう。例えば校舎のどこかに蜂が巣を作ったとか、階段の手すりが壊れたとか。ラインハルトは億劫に思っていることを気取られない程度の早さで立ち上がり、ドアを内側から開ける。

「あれ、あなたは」

 そこに立っていたのは紙袋を手にした若い女性だった。明るい場所で見るのは初めてだが、さすがに昨日の今日では忘れない。それは、昨晩足をくじいたところを助けてやった若い女教師――クララだった。ラインハルトの顔を見て、緊張していたクララの表情が緩む。

「こんにちは。良かった、この控え室にいるって聞いてきたんだけど、間違っていたらどうしようかと不安だったの」

 改めて見ると、彼女は足首に厚く包帯を巻き、松葉杖をついている。やはり一晩では治らなかったようだ。

「ひどく腫れたから、あの後お医者様を呼んだの。幸い折れてはいなかったから、こうしていれば数日から一週間で治るだろうって。くじいた後で無理しなかったから、その分治りも早くなるって言われたわ。あなたのおかげね、ラインハルト」

「……はあ」

 昨晩名乗った覚えはないのに、突然名を呼ばれてあからさまに面食らった表情をしてしまったのだろう。クララはいたずらがばれた子どものように笑った。

「ごめんなさい、名前も居場所も教務主任に聞いたの。お礼を言いたくて。もしかして迷惑だったかしら」

「いや、別に」

 本当は、どちらかといえば迷惑だ。学校の中でもあえてできるだけ人と関わらずに気配を消して過ごしているのだから、こんな風に個人として認識され意識されるのはラインハルトにとっては歓迎すべきことではない。だがクララはただ昨晩の出来事に感謝して、善意で礼を言いにきてくれたのだ。あまりひどい態度を取るわけにもいかない。

「……重症じゃなくて、良かった」

 ようやくそれだけ口に出すと、クララはいかにラインハルトに感謝しているかを半ば一方的に語り、最後に手にした紙袋を差し出した。

「これ、たいしたものじゃないけどお礼よ。お口に合うかわからないけど、休憩時間のお茶菓子にどうぞ」

 彼女の言葉からすると袋には焼き菓子か何かが入っているのかもしれない。もちろんラインハルトは菓子など食べないが、とりあえず礼を言う。これを受け取らないと話は終わらないし彼女は立ち去らない。いや、下手をすると受け取ったところでまだ話を続けようとするかもしれない。牽制の意味を込めてちらりと時計に目をやると、クララも去りどきを察したようだ。

「こんなところに控室があるなんて知らなかったわ。今度また、お茶でも持って遊びに来ていい?」

 帰り際にそんなことを言い出すものだから、ラインハルトは内心ため息を吐く。嫌だ、迷惑だ、という気持ちをどう伝えればいいだろう。

 この学校には若い女の教師はそう多くない。しかも昼間の灯りの下で見るとクララはまあまあ美人で感じもいい。だからこそラインハルトにとってはお近づきにはなりたくない相手だ。

「教師、特に君みたいな若い女性教師が用務員控室なんかに出入りしたら、余計なことを勘ぐる人も出て来るかもしれない。ここに来るのはやめた方がいいと思う」

 結局、懸念を正直に伝えることにした。用務員ごときが若い女教師を垂らしこんでいると噂になれば、クララにとっても迷惑だろうし、もちろんラインハルトにとっても迷惑な話だ。それに万が一の話だが、危機的状況を救ってくれたというだけで舞い上がったクララが自分に妙な感情を持つことがあれば、それこそ厄介だ。

 誰にも愛されないなんて悲壮感と劣等感にまみれて生きているのに、いざとなればこんな魅力的な女性が自分に好意を持つことを心配するなんて――自分でも馬鹿馬鹿しく自意識過剰な想像だと思っていたが、意外にもそれはさして的外れな考えではなかったのかもしれない。小首を傾げて、クララはラインハルトの青い瞳をまっすぐ見つめてきた。

「私、そういうのあんまり気にしない方なの。それにあなたみたいな人となら勘ぐられたって歓迎だけど……」

 だが、そこで彼女の視線は少し下の方へずれ、ラインハルトの顎あたりに固定される。

「俺の顔に何かついてる?」

 じっと見つめられて不安に襲われるラインハルトへクララはにっこりと笑った。

「きっとあなたには迷惑ね。その絆創膏、鏡を見ながらやったにしては出来過ぎだわ。昨晩も時計を見て焦っていたし……ごめんなさいね。妙な誤解はされなかった?」

 意味がわからず数秒固まって、それからようやく彼女が何か大きな、しかしラインハルトにとっては都合のいい思い違いをしているのだと気づいた。だからラインハルトも精一杯の愛想笑いを浮かべた。

「ええ、まあ。帰ったときはちょっと機嫌が悪かったけど、事情を話せば誤解は解けた」