Chapter 1|第13話

 前日とは異なりラインハルトは仕事を終えるとすぐに職場を出た。そして前日とは異なり、アパートメントの前で立ち止まり見上げると自室の窓からはうっすらと明かりが漏れていた。

 安心と落ち着かなさの入り混じった複雑な気持ちで階段を上る。なにしろ、ラインハルトはこの部屋で誰かに出迎えられることに慣れていないのだ。

 ルーカスは、ダイニングテーブルに教科書やノートを広げ、自習をしているようだった。子どもだから甘い菓子が好きだろうと思いクララからもらった紙袋を差し出すと、手を出して受け取り中身を確かめる。

「何これ、どうしたの?」

「もらったんだ。職場の人に」

「ふうん」

 もっと喜ぶのかと思ったが、取り出したケーキとラインハルトの顔を交互に眺めルーカスは怪訝な顔をしていた。しかしコーヒーを淹れてやるとあっという間に数切れあったケーキは全部小さな体の中に収まってしまったから、やはり内心は嬉しかったのかもしれない。

「そういえば、明日は」と、ラインハルトはルーカスの様子をうかがいながら切り出した。

 明日はハウスドルフ家の親類たちが集まってルーカスの処遇を決定することになっている。ルーカスから、彼がハウスドルフ夫妻の養子であり、それを理由に親類たちは彼を引き取ることを躊躇していると聞かされてから、ラインハルトの心の中にもやもやとしたものがわだかまっている。もちろん、ほんの数年間くらい誰かしらが面倒を見てくれるだろうという楽観的な気持ちはある。一方でルーカスがまるで自身が厄介者扱いされていることを確信しているような態度でいることは気になっていた。

「明日って」

 ルーカスは、明日の話をされるとわずかに視線を泳がせる。

「親族会議の結果が出たらここに連絡があると思っていていいのか?」

 そのあたりの話はルーカスと親族たちの間でも特に調整されていないようだ。もちろん、父親の言動に激怒して逃げるように実家を後にしたラインハルトも、実際に明日、いつ頃どのような手段でルーカスの処遇についての連絡を受けるのか聞いてはいない。

「さあ、知らない」

 ルーカスはまるで人ごとのように気のない返事をしたが、やはりそれはただのポーズだったのだろう。翌日になるとそわそわと落ち着かず、朝から何度も窓の外を眺めたり、玄関外の様子をうかがったりして、今にも誰かが大切な知らせを持ってくるのではないかと待ち構えていた。

 そんなルーカスの姿をチラチラと横目で見ながら本を読んでいたラインハルトだが、さすがに昼を過ぎ三時が近くなった頃には一切の連絡がないことを不安に思いはじめた。そもそも週末までの数日間という約束だったからこそルーカスを預かることに同意したのだ。彼を今日ふさわしい場所に戻しラインハルトは日常を取り戻すつもりでいたし、それが実現しないのであれば大問題だ。

「家に電話して、様子を聞いてみようか」

 そもそもルーカスを連れてきたのは父だから、きっと連絡はラインハルトの実家に来るはずだ。電話をした場合、おそらく最初に出るのは母親か、まだ夫婦けんかが続いたままならば姉だろう。ルーカスの件を聞くだけならば父と直接話をしなくてもすむはずだ。だが、ルーカスは首を振り、すでに完璧に荷造りをすませてある自分のかばんを手にした。

「僕、家を見に行く。どうせ皆が集まって話をしているとすれば、僕の家だよ」

 僕の家、という言葉に不思議な感覚にとらわれる。ラインハルトが出会ったルーカスは居場所のない少年だった。ラインハルトの実家のソファで居心地悪そうに小さくなっていて、この部屋に連れてきても自分は厄介者なのだと口走った。そんなルーカスにも本来は家や居場所があったのだ。ハウスドルフ夫妻が事故に会うまでは、今のように憂鬱な顔をして早く大人なりたいと願うような子どもではなく、ごく普通の少年だったのかもしれない。

 傷つき弱ったラインハルトに一人の生活が必要であるのと同様に、ルーカスには家が必要なのだと思った。こんなかりそめの居場所ではなく。妙な性癖を隠し持って人を避けて生きる男の部屋なんかではなく。若い少年は、もっとふさわしい家庭に居場所を見つけ暮らすべきなのだ。

「だったら一緒に行く。仮にもおまえを預かっている身としては、一人で帰すわけにはいかない」

 ラインハルトはそう言い、上着を手にした。

 二人は黙って歩いた。最初の日と同じようにルーカスは大人の足で一歩分ラインハルトから遅れて歩いた。今日のラインハルトは腹を立てているわけではないので途中ルーカスに荷物を持ってやろうかと声をかけたが、少年は頑なにそれを断った。

 トラムに乗り、降りて、歩く。ハウスドルフ夫妻の家をラインハルトは知らなかったが、同じ教区というだけあって、実家からも程近い場所で、立ち止まったルーカスは一軒の家を指し示した。

「あそこだよ」

 こじんまりとした家の前まで歩いて行くと、門扉の横には小さいがよく手入れされていたであろう庭があった。というのも、ほんの一週間か十日前には咲き乱れていたであろう花々は今ではすっかり枯れ果てていたからだ。庭の手入れはハウスドルフ夫妻どちらか、もしくは両方の趣味だったのだろうか。主人を失った家では花に水をやる者もおらず、あっという間に美しかった庭も朽ちてしまったのだ。

 茶色く枯れた花々の残骸で埋め尽くされた庭を目にして、言葉には出さないもののルーカスがショックを受けているのは見て取れた。そしてラインハルトは、やっぱり彼をここに連れてくるべきではなかったと内心で後悔した。だがいまさらいくら判断を悔やんだところでどうしようもない。

 どのように声をかけて家に入るべきか、とラインハルトが逡巡する隙に、ルーカスはリビングルームにつながると思われる大きな窓に駆け寄り、耳をそばだてた。いや、聞き耳をたてる必要もない。ガラスを震わせながら響いてくるのは、ひどく醜いやりとりだった。