「だから最初から反対だったのよ」
甲高い声を耳にした瞬間、ラインハルトはルーカスを連れて事前の連絡もなしにここへやってきた自分の浅はかさを後悔した。
「おい、行くぞ。やっぱりこんな……」
ルーカスに駆け寄ると腕を掴んでその場から立ち去ろうとするものの、少年の体は地面に釘付けになったかのように動かない。はるかに体格に優れた大人であるはずのラインハルトが強く腕を引いても頑なにその場から離れようとしないのだ。
部屋の中からは耳を背けたくなるような言葉が次々と響いてくる。
「あの子たちの信心深さは素晴らしいと思うけど、何もよその子を引き取ることなかったのよ。自分たちの子どもをだってまだまだ作れる年齢だったのに」
「いくら説得したって聞かなかった。こんなことになるとわかっていれば、どんな手を使っても止めたに決まっているが、誰も想像できなかったじゃないか」
「どうするって言うのよ。いくら数年の話でも簡単じゃないわ。学校にも通わせなきゃいけないし、うちは五人も子どもがいるからこれ以上はとても」
「遺産もあるから金の問題は大したことじゃない。うちは二人だが年頃の娘ばかりだ。赤の他人の少年と暮らさせるなんて」
「こう言っちゃなんだけど、まるで疫病神――」
そのいずれも、正直な言葉なのだろう。信心深く情け深いハウスドルフ夫妻はおそらくただの善意でルーカスを家に招き入れた。まさか若く健康な自分たちが彼の成長を見届けることなしに、しかも同時にこの世を去るなどとは想像だにしないまま。その後ルーカスの存在がどれだけ親族を動揺させるかについても思いが及ばないまま。
彼らには彼らの生活がある。たった一人の生活の中にほんの数日間ルーカスが入り込んできただけで、ラインハルトはひどく動揺した。苛々と会話を続ける彼らにはさらに家族としての形があり、そこに突然思春期の少年一人迎え入れるのが簡単ではないことも想像に難くない。
ちらりと目をやると、ルーカスは真っ白い顔をして、ぎゅっと唇をかみしめていた。目の前の現実に打ちのめされないよう細い体をこわばらせながらも足をしっかり地面に踏みしめ、つい少し前まで彼が両親とともに幸せな時間を過ごしていたであろう部屋で、人々が交わす残酷な会話をひとかけらも聞き逃すまいと耳をそばだてていた。
「……行くぞ、ルーカス。ここにいちゃいけない」
ラインハルトは険しい声でささやくが、ルーカスはゆっくりと首を振ってそれを拒んだ。
「ここを離れることに意味なんてない」
ルーカスは馬鹿ではない。むしろ表面上は年齢以上に大人びて賢い。葬儀後のわずかな期間すら縁もゆかりもないラインハルトの一家を頼らざるを得なかった理由も、その後の親族会議が簡単にはいかないことも理解していたはずだ。その上であえて今日直接この場所に来ることを選んだ。きっと自分自信に関する残酷なやり取りを耳にすることを想像した上で。
「あんただって彼らの気持ちはわかるだろう。赤の他人が急に家に入り込んできて、生活をかき乱されるのがどれだけ迷惑か」
心を読まれたラインハルトは気まずさから思わず握りしめていたルーカスの腕を離す。完全にしくじった。ラインハルトの大人気なさがルーカスの人間不信に拍車をかけたのだと思った。
一昨日の夜に彼が見せた孤独と諦観。もしかしたらラインハルトが最初からもう少し用心深く彼に向き合っていれば、こんな投げやりな態度を取らせずに済んだのかもしれない。しかしラインハルトは父親との確執からくる苛立ちをなんの関係もないルーカスにぶつけた。彼の外見が羨ましくて妬ましいという、ルーカス自身にはなんの落ち度もない理由で彼に冷たい態度をとった。今になっていくら後悔したところで遅い。
ラインハルトが止める間もなかった。ルーカスがコツンと窓を叩く。その音を不審に思った一人の女性が窓に歩み寄り、そこに立つ小柄な人影にハッと顔色を変えた。
「……こ、ここに来るとは聞いていなかったから驚いたよ」
ラインハルトとルーカスはハウスドルフ家に招き入れられた。ルーカスにとってここは彼自身の家なので「招き入れられた」と呼ぶのは不適切かもしれない。しかし血の繋がらない親類たちが我が物顔でリビングを占拠する中で、明らかにルーカスはよそ行きの緊張感を漂わせていた。
「そ、そうね。来るなら来ると連絡してくれればよかったのに」
「君がラインハルトくんか。ルーカスを預かってくれてありがとう。葬儀後も我々は慌ただしくて。悪かったね」
さっきまでの鋭い声が嘘のような猫なで声と、取り繕うような言葉と笑顔。彼らの気持ちは理解できるし、黙ってここにきたのもだまし討ちのようで悪かったと思う。その一方でルーカスの孤独と不安を知ってしまった今では親類としての責務を果たそうとしない彼らへの苛立ちも感じる。ラインハルトは複雑な思いのまま、愛想笑いを浮かべることすらできずただルーカスと並んで立っていた。
誰がルーカスを引き取るのかという議題に答えが出ていないことは、この場にいる全員が知っている。しかしすでにタイムリミットの夕方、そしてルーカスまでもここに現れてしまい、なんらかの結論は早急に求められる。人々は気まずそうに顔を見合わせ、黙り込んだ。ちょうどそのときだった。
「僕のことで、ご迷惑をおかけしてすみません」
口を開いたのはルーカスだった。真っ白な顔をして、ほとんど紫色の唇を噛み締めながら、しかしその表情も声色も凛と澄み切っていた。最初にラインハルトの実家で出会ったときのように、一昨日に予告なしに帰宅が遅くなったラインハルトに告げたときのように、彼はきっぱりと続けた。
「皆さんを煩わせるつもりはありません。できることならこの家でひとりで暮らしたいけれど、それは僕の年齢では難しいから――施設へ行きます」
張り詰めた空気が一気に緩んだのが肌で感じられた。引きつった顔で座っていた男女がチラチラと顔を見合わせ表情を和らげる。
「いや、でもあの。私たちも決して君を見捨てようというわけでは……」
あまりに堂々とした、しかし悲壮なルーカスの宣言に良心を揺さぶられたのか、思わずそんなことを口にした初老の男の足を、隣に座っていた妻が踏みつけるのが見えた。
「いいんです。僕は学校も変わりたくないので、だったらここからあまり距離のない施設を探したほうが良いんだと思います」
「そうね。私たち誰もこの近くには住んでいないし。せっかく良い学校に通っているなら卒業まで学校の近くにいるのが一番ね。幸いあなたの教育に十分な蓄えはあるし、その辺りは誰かが後見人になって……」
賢いルーカスは学校を理由に持ち出し、それは親類たちの罪悪感を軽減するには十分だった。彼らは口々に「確かにあそこは優秀な子が集うギムナジウムだからな」「もったいないわよね」と言い合って、ほっとしたように笑顔を見せた。
数日内にでも近隣の施設を当たることですんなりと話が収まりかけて、人々も、恐らくはルーカス自身もそれで満足している。彼にとっては日々迷惑そうな顔をした他人の中で過ごすよりは、大人になるまでの数年間を施設で過ごすほうがよっぽどましなのだろう。
しかしラインハルトは納得がいかなかった。ルーカスの決断は彼が本当にそれを望んでいるからでも、それが彼の幸せであるからでもない。孤児としての過去やせっかく見つけた束の間の両親も事故で失ったこと。そして周囲の人々の迷惑そうな素振りなどから学んだ保身――あきらめてしまえばそれ以上傷つかないだろうという、彼なりの防衛本能に他ならないのではないか。
かつて父親に叱責され「悪魔憑き」と罵られた十四歳のラインハルトを一時的にでも救ってくれた年上の友人たちの顔を思い出す。今思えば彼らの静かな生活を乱す存在でしかなかった異物である子どもに「いつでも来ていい」と言ってくれて、話を聞いてくれたあの頃の彼らの年齢に、いつの間にかラインハルト自身も差し掛かっている。だったら、今の自分がすべきことは。
「あの」
思いの外すんなりと言葉は口から飛び出した。
「俺が、ルーカスを引き取ります」