Chapter 1|第15話

 ラインハルトの突然の発言にハウスドルフ家のリビングは静まり返った。赤ん坊を連れた比較的若いカップルから初老といっていい世代まで、十人以上の視線がさっと自分に集まるのを感じて、ラインハルトは遅ればせながら発した言葉の重さにハッと息を飲む。

「君は……?」

 口ひげを蓄えた男が怪訝そうに訊ねる。それも当たり前のことで、ここにいるうちの誰ひとりともラインハルトは面識がない。彼らからすれば見知らぬ若い男が突然ルーカスを引き取ると言い出したのだから、驚くのも警戒するのも当たり前だ。

 だが、ラインハルトの背中にあふれた冷たい汗はもっと別の種類の緊張によるものだった。彼らの視線に射抜かれて、なぜだか思い出すのは父の声。

 ――相手は子どもだ。妙なことを考えるんじゃないぞ。

 ラインハルトの性志向を知っているのはこの世でたったの四人だ。同性愛者である息子を恥じている父がそのことを口外するはずはない。オスカルはスイスに行ったきり一度も姿を見ていないし、残りのふたりはウィーンから姿を消してしまった年上の友人たち。ここにいる人々がラインハルトが同性愛者であることを知っているはずなどないのに、それでもこんな風に見つめられると怖くなる。変質者が何か良からぬことを企んでいるのだろうと、疑われ責められているような気がしてくる。

「あ、あの俺は……」

 そもそも人付き合いは苦手だ。できるだけ気配を消して目立たないように生活しているので、こんな風に人々に注目されるのには慣れていない。見知らぬ人々の視線の中でただ狼狽するラインハルトだが、若いカップルの女の方が助け舟を出した。

「叔父様、葬儀の後、教会関係の方があの子を一時的に預かってくれていたのよ。そのお家の方だわ」

「そ、そうです。ラインハルト・ヘンスといいます。ハウスドルフさんには子どもの頃よく遊んでもらって……実家は手狭なのでここ三日、ルーカスは俺のアパートにいました。小さな部屋ですが彼のギムナジウムにも歩いていける距離なので……別に、彼が卒業するまでくらいなら」

 妄想か現実かわからない疑惑を振り払うために、ラインハルトは一気にまくし立てた。こんなにたくさんの人の前で話をするのは子どもの頃以来で、焦りで顔が熱くなるのがわかった。それどころか緊張のあまり自分の奇妙な提案を取り下げるどころか、ルーカスを引き取りたいという主張をさらに重ねてしまった。

「そうか、でもこれは我々の家の問題だ。事故死した親族の遺児を赤の他人の、しかも君みたいな……と言っては失礼だが、子どもみたいな若者に預けるというのもな」

 男は口ひげを撫でながら、ラインハルトの提案をやんわり却下しようとした。だが、そこにすかさず女性の声が割り込む。

「でも、こう言っちゃなんだけど、この子に施設に行ってもらうのとどっちがいいかしら。だって、こちらのヘンクさんはエドガーとは同じ教会で親しくしてくださっていたんでしょう? そういう方がルーカスを気にしてくれるのはおかしなことではないわ」

 それを聞いてラインハルトは、亡くなったハウスドルフ夫妻の夫の名前がエドガーであったことを思い出す。ファーストネームすら今の今まで思い出せないほど長い間エドガーとは顔を合わせていなかった。

 同じ教会で親しくどころかラインハルトはもう五年以上教会の敷地にすら足を踏み入れていない。だから彼女の言葉は完全に事実とは異なっている。しかし彼女の言葉にリビングにいる面々が顔を見合わせ、目配せし、口々に「そうだなあ」「確かに子どものことを考えれば……」と言いはじめるのを見て、余計なことを口にするのはやめておくことにした。

 ラインハルトはようやくそこで、人々の考えを理解した。彼らは血縁関係もないルーカスを引き取りたくないと思っている。しかし世間体は気になるから、自分たちが哀れな十四歳の孤児を放り出したと非難されない方法――できるだけ「ルーカスのためにはこれが一番良かった」と笑って厄介払いできる方法を探して、二つの選択肢である孤児院とラインハルトを天秤にかけているのだ。

「ルーカス、君はどうなんだい」

 最終的に彼らは判断をルーカス本人に委ねるようにしたようだ。実際のところ、施設だろうが見知らぬ若い男の家だろうが、彼らにとっては同じことだ。だったらルーカス本人の希望を聞いたことにした方がまだ聞こえはいいだろう。

 黙って議論の行方を見守っていたルーカスは顔をあげると、年に似合わない老成した目でちらりとラインハルトを見た。青い瞳に射抜かれて、ラインハルトはきゅっと心臓が縮こまるような気がした。

「僕は……」

 余計なお世話だったかもしれない。ルーカスだってこの数日間、ラインハルトから一方的に八つ当たりされたり、夜遅くまで放置されたり、かと思えば切り傷の治療をする羽目になったりとろくな思いはしていない。あのアパートメントでの生活を彼が楽しんでいるようには見えなかった。

 あんな狭い部屋で毎晩ソファで体を丸めて眠りながら、ラインハルトの情緒不安定に付き合うくらいならば施設で適切なケアを受けた方がずっとましだとルーカスが考えていたとしても不思議はない。俺が引き取る、なんて言っておきながら当のルーカスに断られるなんて、ひどく惨めだ。いずれにせよこんなこと、言い出すべきじゃなかった。

 突然決断を迫られたルーカスが答えを探す数十秒を、ひどく長く感じた。

「じゃあ……ラインハルトのところに」

 やがてルーカスはいつも通りの落ち着いた様子で、声変わり中のかすれ気味の声で、はっきりとそう言った。その答えに一番驚いたのはきっと、ラインハルトだった。