話はとんとん拍子に進んだ。ルーカスの学校にほど近い場所で暮らしている教会つながりの知人に預ける、というのは施設送りよりはよっぽど良識的で罪悪感を抱かずにすむストーリーなのだろう。少なくともここに集う人々にとっては。
少し前までの重苦しい空気が嘘のように人々は愛想よく笑い、饒舌にしゃべった。いかに彼らがルーカスを手元に置けないことを残念に思っているか、いかにハウスドルフ夫妻がルーカスを愛していたか。もちろん何もかもはラインハルトの耳に虚しく響く。
「今日はもう遅いから今後のことは後日またゆっくり話そう。この家や、あの子の荷物や――養育費は、遺産の額も知れているので君の望みどおり払えるかはわからないが」
口ひげの男にそう声を掛けられ、ラインハルトは慌てて左右に首を振った。
「いえ、あの養育費とか、そんな。俺はそんなつもりは」
金の話など今この瞬間まで考えてもみなかった。だが開口一番こんなことを言い出すなんてもしかしてこの男は、ラインハルトが養育費目的でルーカスを預かると言いだしたと思っているのだろうか。
下心を疑われるのが惨めなので必死に否定するが、男の言葉に、勢いまかせの正義感だけではすまない現実に思い至ったのも事実だ。用務員の給料は大したものではない。ラインハルトひとりであれば住む場所と日々の糧には不自由しないが、ここにルーカスまでも抱え込むとなると、どうだろう。旺盛な食欲を見せる育ち盛りの少年。いや、食事くらいはなんとかなるかも知れないが、学費や衣類など、一体ルーカスを育てるにはいくらかかるのだろう。もちろん実家を頼る選択肢はそもそも頭にない。
口ごもるラインハルトに先んじたのは、いつの間にか隣に立っていたルーカスだった。
「叔父さん、僕は必要な生活費と学費はちゃんと払いたいんです。だって赤の他人のラインハルトにお金の迷惑まではかけられないから」
「あ、ああそうだな。もちろん必要経費は払わなきゃいけないさ。では改めてゆっくり相談しよう、ヘンクくん」
言外に釘をさすような響きのこもったルーカスの言葉に、口ひげの男は慌ててうなずき、ラインハルトの連絡先を手帳に書き留めた。
ルーカスがラインハルトのアパートメントに持って行きたい荷物があるからと言って自室に戻った隙に、ひとりの女性が困ったようにため息を吐く。
「悪いわね。こう言っちゃなんだけど年の割りに妙にませた態度をとるし、なんだかあの子扱いにくいところがあって。それもこれも……」
誰かが彼女の肩を叩き目配せしてそれ以上の言葉を止めた。これが偽らざる彼らの本音。
「だから、君みたいなしがらみのない若い人が兄代わりにそばにいてくれる方がいいのかも知れない」
取り繕うような言葉にラインハルトは返事をしなかった。彼らが心底そう思っているとは思えないし、何よりラインハルト自身も本当にこれがルーカスのために、自分のために良いことなのかわからないからだ。ルーカスが十八歳になるまで、あと四年。それが長いのか短いのかすら想像ができないが、ともかく自分はその間彼を部屋に置くと宣言してしまったのだ。
帰り道、ラインハルトは黙っていた。そして、ルーカスも黙って後をついてきた。
最初の日、ラインハルトが実家からルーカスを連れて帰った日と同じように一切言葉を交わさないまま歩き、トラムに乗り、しかし二人の間に漂う空気はやや異なったものだった。あの日ほど刺々しくもよそよそしくもない。だが、いざ二人きりになってしまえばラインハルトは自分が勢いまかせで下した決断への不安ばかりが大きくなる。
学もないし子育て経験などもちろんない。正しいしつけも教育も施すことができないであろう自分と暮らすより、きちんとしたスタッフに囲まれて施設で過ごす方がルーカスにとっては良いことなのではないか。一時の感情とノスタルジーに流されて、もしかしたら大変なことをしでかしてしまったのではないか。
だが、ラインハルトの迷いを知ってか知らずかルーカスはどことなく嬉しそうに見える。金色の髪を揺らし白い肌を紅潮させて、大人の歩調に負けじとついてくる全身から抑えきれない喜びが滲み出している。
彼は施設に行きたくなかった。それは施設の環境がどうこうという話ではなく「これ以上見捨てられる経験をしたくなかった」からなのだろう。だから、誰かが――たとえそれがラインハルトだろうが、拾う手を差し伸べてくれたことに単純に喜んでいる。馬鹿な子どもだ、と思う。だってルーカスはラインハルトが本当はどんな人間であるか知らない。
「いいのか?」
ラインハルトは数歩分遅れてくる少年を振り返らないまま、口を開いた。特に返事がないのでさらに言葉を重ねる。
「おまえ、俺がどんな奴かもよく知らないのに一緒に暮らすなんて。施設の方がよっぽどマシかもしれないぞ」
「三日間、一緒に過ごした」
迷いない少年の声に、焦燥はむしろ増すようだった。
「たった三日で何がわかる。そんな短い期間で人が理解できるかよ」
何も知らないくせに。本当のラインハルトの姿――誰からも愛されず、実の父親からも蔑まれ悪魔憑きと呼ばれる同性愛者。ハウスドルフ夫妻の元で教会に通って育ったであろうルーカスがそのことを知ったらどう思うだろう。もしかしたら彼は、自分が邪な目的のもとに引き取られたのではないかと疑うのではないか。そんなことを考えるとチリチリと胸が痛む。
瞬間、右手をぎゅっと握られた。自分のものより小さい手のひらの、しかし力は意外なほど強い。思わず立ち止まり振り返ったラインハルトはそこにルーカスの真剣な顔を見た。
「あんたが何者かなんてどうだっていい。……だって、僕は自分が何者かすら知らないんだから」
その手は小さく震えているようだった。
「ルーカス……?」
「生みの親の記憶はないけど、小さい頃いた施設の人は良い人ばかりで、優しくしてもらった。パパとママにも出会えて……今もあんたに手を差し伸べてもらえて。だから、僕は自分が最低に不幸なわけじゃないって思える」
ありがとう、という声ははにかんで小さく掠れ、ラインハルトの胸の奥へと甘く苦く溶けていく。差し伸べた手をとってもらえること、誰かに必要とされること――それは抗いがたい喜びで、一方でひどく危険な毒でもあるような気がした。