休日の外出から帰宅する人々でトラムは賑わっていた。ラインハルトとルーカスも、アパートメント最寄りの停留所で降車したときに人の波に流されてしまう。
ルーカスは、ラインハルトに置いていかれたと思ったのかもしれない。金色の頭は水に浮かぶくらげのように大人の広い肩や背中の間を漂い、ふいにラインハルトの視界から消える。
「待て、そっちじゃない」
声は届かなかったようだ。ひと通り降車する人たちの波は過ぎたが、その場に立ち止まったままのラインハルトは今度は車両に乗り込もうとする人たちともみ合いになる。
「おい、ルーカス!」
不安に駆られてさっきよりも大きな声をあげると、何のことはない、少し離れた場所からひょいとルーカスが顔を出す。見つけてしまえば、たかが停留所ではぐれかけたくらいで動揺した自分のことが恥ずかしくなる。ルーカスに奇妙に思われるかもしれないと気まずくなるが、意外にも目の前の少年ははにかむような、しかし嬉しそうな顔を浮かべている。
「離れるな」
ひと言そう告げると、ルーカスは意外な反応を示した。
「二度目だ」
「え?」
何が「二度目」なのかがわからずラインハルトが思わず訊き返すと、ルーカスはうっすらと笑いを浮かべ、順番に指を折った。
「あんたが僕の名前を呼んだのが、二度目だって言ったんだよ。さっき家で一度。そして、今」
意識はしていなかったが、言われてみれば確かにそうかもしれない。あえて彼の名を呼びたくない理由があったわけではなく、名前を呼ぶタイミングが見当たらなかっただけだ。だからラインハルトは、ルーカスがそんなことを気にしていたのだと知り少なからず驚いた。どういう感情がその根底にあったのかはわからないが、彼はラインハルトに名前を呼ばれないことに何らかの引っかかりを感じていたのだろうか。
「別にどうでもいいよ、そんなこと」
ルーカスの顔にはあからさまに「どうでも良くない」と書いてあるが、この話を深追いすることに気乗りしないラインハルトは、少年に背を向けて強引に話を帰る。
「いいから行くぞ。買い物して帰ろう、家にはもう何もないから」
買い物には最初から寄るつもりだった。もともと買い置きの乏しい家に旺盛な食欲の少年がやってきて三日、完全に食料は尽きている。何かしら買って帰らないと今晩ルーカスに食べさせるものすらない。
おとなしくラインハルトの後をついてきたルーカスだが、いざ食料品店に入ると落ち着かない様子を見せる。
「何が食べたいんだ?」
そう訊ねても、返事は「うん、別に」とはっきりしない。毎日遠慮のかけらもなく食べていたのに、いまさら遠慮する理由がわからず問い詰めると、ようやく口を開く。
「あのさ、あの人……僕のパパの叔父さんは、ああいうことを言っていたけど悪い人ではないんだ。だから約束は守って必ず僕の学費と生活費は……」
ようやくそれで合点がいった。ルーカスは正式な居候となったことによるラインハルトの経済負担を気にしているのだ。子どもだから、これまでは食べ物ひとつひとつに金がかかっていることすらもしかしたら考えていなかったのかもしれない。しかしさっき口ひげの男がラインハルトに養育費の話をしているのを聞いたことで、少年ひとりの身柄を預かるには金がかかることをに気づいたのだろう。
もちろん、金の問題はラインハルトについて小さいものではない。だが、それは大人たちの間で話すべきことで、ルーカスが気にすべきことではない。一時は自ら施設に行くことを申し出るところまで思い詰めた少年の気遣いがいじらしくて、ラインハルトは思わず表情を緩めた。
「わかった。ちゃんとおまえの両親の金で埋め合わせてくれるんだろう。だからここで買い物をするのは俺じゃなくてルーカス、おまえだ。欲しいものは何でも買えば良いよ」
「……うん」
そこまで言ってやって、ようやくルーカスは明るい顔で商品棚を見て回りはじめた。食料品店の後は肉屋に寄る。普段の倍以上のソーセージを買い込むラインハルトを見て店の主人は意外そうな表情を見せた。
帰宅してルーカスのために食事の準備をする。さすがに空腹を感じ、ラインハルトもソーセージを半分だけ食べた。
食卓に向かい合い、ルーカスが大量に食べ物の盛られた自分の皿と、申し訳程度の量しか乗っていないラインハルトの皿を見比べているのには気づいていた。これまでは「職場で食べた」という言葉でごまかしていたが、今日は一日ずっと一緒だったから、ラインハルトの食事量が成人男子として極めて少ないことには気付かれてしまうはずだ。せめて何も言わないでくれるよう祈ったが、ルーカスは遠慮なく疑問を口にする。
「ラインハルト、いつ見てもろくなもの食べていないね。お腹減らないの?」
その表情にかすかに影がさしているのを見て、面倒くさいことになったと思う。
ルーカスがさっき食料品店でラインハルトの懐具合を気にしたのも、もしかしたらラインハルトの食事量が少ないことを貧しさゆえだと思っていたのだろうか。もちろんそれは事実ではない。しかし一方で、ラインハルトにはこの件でルーカスを納得させるだけの理由を持ち合わせていない。
こんな子ども相手に「外見へのコンプレックスから、食事を制限して華奢な体型に近づけようとしている」などと言えるはずない。いや、食事だけではない、傷やコンプレックスに起因するラインハルトの独特の生活様式何もかもに、きっとルーカスは疑問を抱いているだろう。
ラインハルトはルーカスになんの説明もできない。しかし、こんな子どものために自分のこだわりや生活様式を変える気もさらさらない。だから、ナイフとフォークを皿に置くと、おもむろに切り出した。
「ルーカス、本気でこれから俺の家で暮らす気なら、いくつか約束をしろ」
「約束?」
頬張った肉を飲み込んでから、ルーカスは首をかしげる。ラインハルトは大きくうなずいた。
「ああ、おまえのパパやママは血はつながっていなくたっておまえを息子として迎え入れた家族だった。でも俺は違う。おまえに住む場所は与えるが、家族じゃない。赤の他人同士が一緒に暮らすためにはルールが必要だ。わかるな?」
突き放したような言いぶりは多少冷たく響くかもしれないが、こういうことは最初にはっきりとさせておかないと後で大きな問題になる。
「ルールってどんなのがあるの?」
訊ねられ、ラインハルトはどうしても譲れない約束を三つ宣言することにする。
「まず、俺の家族――親父の話は絶対にしない」
「うん」
ルーカスはすぐさまうなずいた。先日の実家での様子を見ていたルーカスは、理由はともかくとしてラインハルトと父親が不仲であることには気づいているだろう。このルールについては比較的理解しやすいはずだ。
「次に、俺の食生活に口を出さない。おまえには好きなものを食わせてやるから、俺が何を食っていても文句を言うな」
「……うん……」
ふたつ目のルールには、少し気まずいような表情を見せた。たった今食事内容について質問したことがラインハルトの感情を損ねたことに気づいたのだ。あまり納得がいっているようでもないが、とりあえず返事はする。
そして最後。
「もう一つ、これは大事だ。俺が朝起きて洗面を終えるまでは俺の方を見るな。俺がバスルームにいるときは入ってくるな」
「……」
ルーカスは押し黙った。もちろんラインハルトも、自分が宣言した三つ目のルールがひどく奇異で理不尽なものだということはわかっている。その上でルーカスに約束を迫っているのだ。
「返事は? 理由なんか考えなくていいから、はいかいいえか選べ」
なかなか返事がないので、ラインハルトは焦れて答えを迫った。するとルーカスもカトラリーを皿の上に投げ出して、ため息をつき両手を挙げ降参のポーズを見せる。
「はい、だよ。だって、それ以外の返事をすればあんた僕を追い出すつもりだろう。そもそも選択肢がないものを選ばせないで」
その声には、圧倒的な立場の差を盾に理不尽を迫られている子どもの不満がにじんでいた。いざ責められると申し訳ない気持ちも湧いてくる。
「……気むずかしいと思うだろうな。居心地が悪いなら申し訳ないけど、一人の生活が長くて」
いまさら言い訳がましいことを言い出したラインハルトに、ルーカスは小さく笑って首を左右に振った。
「いいよ、別に気むずかしくたって。ここに置いてもらえるって、それだけでありがたいと思ってる。僕、あんたの部屋けっこう好きなんだ」
ラインハルトは思わず鼻で笑った。なにしろ、今日目にしたハウスドルフ家は、豪邸ではないものの夫婦と子どもが不自由なく暮らせるだけでの広さを持っていた。主を失ったため庭の花は寂しく枯れ果て家の中にもやや埃が目立ったが、ルーカスの両親が健在だった頃はきれいに整った、美しい家であったことは想像にかたくない。
「もの好きだな。こんな古くて狭い部屋のどこが」
だが、自嘲気味なラインハルトのつぶやきにすらルーカスは笑顔を見せ、普段の態度には似合わない子どもっぽいことを言い出すのだった。
「だって、ちょっと秘密基地みたいじゃないか」
そして再びフォークとナイフを手にすると、勢いよく皿の上のものと格闘しはじめる。
ラインハルトはルーカスの言葉に、ふっと十四歳の記憶が蘇るような気がした。ときおり遊びに行った年上の友人たちの暮らす部屋は狭くて暗くて、いつも湿っぽかった。しかし二つの寝台を並べればいっぱいになってしまうその部屋と、その部屋で静かに密やかに暮らす二人のことがひどく羨ましかったラインハルトは、「秘密基地みたいで羨ましい」と言い、部屋の主に呆れられた。まさか今、自分があの頃の彼らくらいの年齢になって、一人で暮らす寂しい部屋を十四歳の少年に羨まれるなんて――。
「秘密基地か、それは悪くないな」
もう一度ラインハルトは小さく笑うが、今度は自嘲でも皮肉でもない。住人が増えた部屋は少しだけ華やぎ、ラインハルトはこの「秘密基地」を少しだけ好きになれそうな気がした。