洗面台の蛇口をひねり、ラインハルトはそこから出てくる水が少し温んできたことに気づく。日々の慌ただしさに追われる中でも、確実に季節は変わり、春は訪れているのだ。
顔を洗い、念入りにひげを剃る。髪は三日前に金色に染めたばかりだから問題ない。鏡に映るのはうんざりするほど見飽きた自分の顔と体。毎日眺めてそのたびに絶望し、少なくとも前の日の自分よりは醜くなっていないことにわずかながら安堵の溜め息をつく。
「……おはよう、ラインハルト」
バスルームの扉を開けてリビングに顔を出すと、ちょうどルーカスが起き出したところだった。いや、本当はずっと前から目を覚ましていたのかもしれない。律儀なルーカスは約束を守って、毎朝ラインハルトがバスルームで身支度を終えるまではソファで毛布をかぶったままでいる。
もちろん、その約束を受け入れないならばこの部屋には置かないと宣言したのは他の誰でもないラインハルト自身なのだが、それでも半年もの間、一度たりともルールを破ることないルーカスの生真面目さには驚かされる。
「まだ寝ていていい時間だろう?」
「でも、目が覚めちゃうんだ」
毛布を畳みながら、ルーカスは小さくあくびをする。本当はまだ眠っていたいに違いないのに、ラインハルトが出勤の支度のために動き回る物音で目が覚めてしまうのだろう。
「だから寝室を譲るって言ってるのに」
朝の早い方がリビングで寝たほうがいい、という話は何度もしている。起き抜けの姿を見られないよう足を忍ばせてリビングを通り抜けるストレスを思えばラインハルトにとってもルーカスが寝室にいてくれたほうが気が楽だ。だが、ルーカスは決してその申し出を受け入れない。
「居候が寝室を占拠するなんて、さすがに図々しすぎるよ。いいんだ、学校に行く前に予習もできるし。コーヒー淹れておくから着替えておいでよ」
同居をはじめて最初のうちは完全なお客さんだったルーカスだが、新しい生活に馴染むにつれて、ラインハルトの様子をうかがい嫌がられない範囲で家のことを手伝うようになった。部屋の片付け、買い物、食事の準備など、仕事をしているラインハルトでは手が届かない部分を助けてくれるのは正直ありがたい。朝も、ラインハルトに時間がありそうな日には決まってコーヒーを淹れてくれる。
思いきり伸びをしてキッチンに向かう少年とすれ違いざま、ふとラインハルトは違和感を覚えた。
「あれ、おまえ少し背が伸びた?」
ルーカスの身長はラインハルトの肩ほどまでしかなかったはずだが、いつの間にか頭の位置がずいぶん高くなり、今では頭頂部はラインハルトの顎よりも高い位置にある。そういえば、ただ掠れがちだっただけの声も少しずつ低く、男っぽいものに変わりつつある。
何気ない指摘に、ルーカスは子鹿のような俊敏な動きで振り返った。
「気づいた!?」
青い目は喜びでキラキラ輝いている。
「……うん、まあ」
「そうなんだ、だいぶ伸びたんだよ。それでもまだクラスの中じゃ低い方なんだけど、このままどんどん大きくなれば一気に追い抜けるかも」
上機嫌でまくし立てるルーカスの顔を、ラインハルトはじっと検分する。髪はまだ輝く金髪のまま。口や頰のあたりもつるんとしている。首や手足もまだまだ細いが、これだけ背が伸びれば他の成長も時間の問題だろう。
「どうしたの、ラインハルト?」
「なんでもない。着替えてくる」
ラインハルトは思わず口からこぼれそうになった「もったいない」という言葉をすんでのところで飲み込んだ。ルーカスの少年らしい容姿に憧れ、妬ましくすら思っていることは決して本人には知られてはいけない。それはイコール、ラインハルトの過去やコンプレックス、そして性癖までも明らかにしてしまうことだからだ。
早く大人になりたくて、身体の成長も大人の要件のひとつだと無邪気に信じているルーカスにとっては身長が伸びることも声が低くなることも喜びだ。そこにラインハルトの歪んだ価値観を押し付けることなどできない。
だが、ラインハルトはルーカスの成長を眺めることで、ひどく複雑な気持ちになる。コンプレックスを日々刺激してくる美しい少年の姿が失われることを歓迎すべきことだと思う反面、ルーカスがかつての自分のようにあのしなやかで中性的な姿を手放して行くところを見ることには、まるで過去の喪失を追体験するような息苦しさも感じるのだ。
*
「……で、困っちゃうのよね。聞いてる? ラインハルト」
名前を呼ばれて、ハッと顔を上げる。
「あ、ごめん」
そこには苦笑いを浮かべるクララの姿があった。
用務員室には来ない方がいいと釘を刺したにも関わらず、クララはときどき空き時間にお茶菓子を持ってやってくる。教師同士では言いづらい愚痴のようなものをこぼすのに、同じ学校に勤務し年齢も近く、しかし教師ではないラインハルトはちょうどいい存在であるのかもしれない。しばらくは迷惑そうな態度で振り払おうとしていたラインハルトだが、効果がないので結局はあきらめた。
「何の話だっけ?」
「誕生会よ。うちのクラスで、けんかを引きずっていたせいでひとりだけ誕生日パーティに招待されなかったって大騒ぎ。確かにパーティに誰を呼ぶかは主催者の裁量だけど、子どもだからちょっとしたことで傷ついちゃうのよ」
「先生も大変だね。子どもたちの私的なトラブルまで仲裁だなんて」
子どもたちの諍いの話になど興味はない。ラインハルトは愛想笑いと相槌でとりあえずクララの溜飲を下げようとする。
ラインハルトの前ではこんな愚痴をこぼすクララだが、仕事中にたまに見かける彼女は、子どもたちの前でひたすら明るく優しく、はつらつとした空気を振りまいている。コミュニケーションに自信を持たないラインハルトにとってはそんなクララの姿は尊敬に値する。もしかしたらここにストレスを吐き出しにくる彼女を拒めないのは、普段の彼女の姿を知っているからなのかもしれない。
「私なんて、忙しくて誕生日なんて姉さんとケーキ食べたくらいよ。まあ子どもにとって大イベントなのは理解するけどね」
「誕生日……大イベント……」
クララの言葉にふと思い出す。ルーカスの面倒を見ると決めた後、後見人となった叔父と話し合い、養育費などの取り決めに関する数枚の書類にサインした。その中にはルーカスの身分事項についての記載もあり、そういえば彼の誕生日は――。
「どうしたの? ラインハルト」
ルーカスの十五歳の誕生日が気づかないうちに過ぎていたことに、ラインハルトはそのときはじめて気づいた。