「……いや、同居人の誕生日が、そういえば少し前だったかなと思って」
ラインハルトとしては何気なく口にした言葉だったが、クララは驚いたように目を見開き感情をあらわに身を乗り出してきた。
「冗談じゃないわ、何平然としてるのよ。そんなの呆れて出ていかれたって文句言えないくらいの大失態じゃない。ラインハルト、前々からあなた、ちょっとぼーっとしたところがあるとは思ってたけど、まさか恋人の誕生日を忘れるなんてあり得ないわ」
大げさな反応は、彼女がラインハルトが恋人と一緒に暮らしていると思い込んでいるからだ。しかし面倒だから誤解を解かずにいるだけで、ルーカスはラインハルトの家族でも恋人でもないし、そもそも若い女ですらない。ラインハルトが彼の誕生日を気にかけなかったからといって怒りはしないだろう。
「でも、本人も何も言わないし」
普段はクララの言うことには適当に相づちを打つくらいだが、あまりに激しく非難されたことへの反発もあって思わずラインハルトは言い返す。だが、クララはまるで自分自身が恋人から誕生日を忘れ去られた当事者であるかのように感情的に続けた。
「それだけショックだっていうことよ。内心はすごく怒って、あまりに傷ついているから自分から誕生日の話題に触れられないに決まってるわ。もしかしたら一生尾を引くかもしれない。誕生日ってそのくらい大切なんだから」
あまりの剣幕に、それ以上言い返す気は失せた。
クララの言葉には懐疑的だったラインハルトだが、仕事を終えて帰る途中にケーキ屋の前を通りかかった瞬間気になって足を止めてしまう。ちょうどドアに取り付けられたベルが鳴り、店内から親子らしき二人連れが出てくるところだった。母親であろう女性と並んで、輝くような笑顔で大切そうにケーキの箱を抱える少年はルーカスと同じくらいの年頃であるように見える。
もしかしたらルーカスも両親と暮らしていた昨年までは、あんな風にケーキを買ってもらい、誕生日を祝ってもらっていたのだろうか。一度そんなことを気にしはじめれば、そわそわと落ち着かない気持ちは大きくなるばかりだ。
よくよく振り返れば、ラインハルト自身も成長期を迎えるより前は、ひとつ年を取るということを輝かしく誇らしいことだと思っていた。もちろん当時は自分の将来は明るいと信じていたし、思春期を終える頃に迎える容姿の変化にどれほど苦められるかなど想像もしなかった。
ケーキ屋になど長らく入ることはなかったから、扉を開けるだけのことにも勇気が必要だった。並んだケーキの中でどれがルーカスの好みなのかもわからない。甘いものならば、いや食べ物でさえあればなんだってよろこんで平らげてしまいそうな気がする。結局恥を忍んで店員に訊ね、子どもに一番人気があるというチョコレートケーキを選んだ。予定外の出費だが、たまの贅沢くらいなんとかなる。
いざ手にしてみると、頼りない紙箱の中のずっしりとした重みは予想外にバランスが悪い。家にたどり着くまでの間に落としたりぶつけたりしては台なしだと思うとやたら緊張して、ラインハルトの歩みは必要以上にゆっくりと用心深くなった。アパートメントの階段を登っている最中、自分がルーカスの喜ぶ姿を頭に思い浮かべていることに気づくと誰に見られているわけでもないのに気まずく恥ずかしくなった。
帰宅するとルーカスはちょうど夕食を食べようとしているところだった。ラインハルトが食卓を一緒に囲みたがらないことに気づいて以降、ルーカスは自ら夕食の支度をして、自分一人で食べてから後片付けまで済ませる。
「……どうしたの、それ」
ラインハルトの手に大切そうに抱えられたケーキの箱を見て、少年の青い瞳はまん丸く見開かれた。その声には純粋な驚きしか含まれていない。ラインハルトが想像していたような、ぱっと花が咲くような喜びとはかけ離れた反応に、それが誕生日祝いであることを言いだしにくいと思ったほどだ。しかし、理由もなくケーキを買ってきたというのもなおさら奇妙な話だ。ラインハルトは気まずくもなんとか切り出した。
「いや……先週、誕生日だったんだろう。前に書類で見た」
「え?」
ルーカスは絶句の後、一瞬無表情になる。
ラインハルトは不安に襲われた。まさかあれは見間違いでルーカスの本当の誕生日は全然違う時期なのではないか。自分は大きな勘違いをして見当違いのことをしでかしてしまったのではないか。驚きと恥ずかしさに、どう反応すれば良いのかわからない。
しかし、それはただの杞憂だった。ルーカスの頬が徐々に薔薇色に染まり、やがてその表情は喜びであふれた。そして、きらきらと瞳を輝かせた少年は食べかけの夕食をそのままに椅子から飛び上がりラインハルトに突進した。
「うわっ」
いくら小柄であるとはいえ、心の準備ができていないところに少年特有のバネの入ったような動きで突然飛びつかれれば、ラインハルトとてまっすぐ立ってはいられない。驚きと衝撃に数歩後ずさりケーキを取り落としそうになったが、すんでのところでこらえた。
「おい、なんだよ急に。危ないだろ、離れろよ」
ラインハルトが露骨に避けるような態度をとったので、ルーカスははっとした表情を見せて体を引いた。その表情には少し傷ついたような素振りが見えた気がした。
決してこれは嫌悪ではない、ただ驚いただけなのだ――ラインハルトはそう思うが、あまりに言い訳じみた言葉を口にすることはやめておく。なぜならラインハルトは自分の驚きの原因のひとつがルーカスの態度であったことに気づかれたくなかった。
一方的に奇妙なルールを課して、気難しくよそよそしい家主に対して、ルーカスはまるで懐いているかのような態度をとったのだ。ラインハルトにとってそれは意外なことだった。