Chapter 2|第20話

「ほら、甘いもの好きなんだろう」

 話題をそらそうとしてラインハルトがテーブルの上にケーキの箱を置くと、ルーカスは気を取り直したように少しだけぎこちない笑顔を見せてもう一度「ありがとう」と繰り返した。

 喜ぶ姿を期待していたのは確かなのに、いざ笑顔と感謝の言葉を前にするとどう反応するべきかわからなくなってしまう。とりあえずケーキの前に皿の上のものを片付けるように告げると、ルーカスはフォークとナイフを握り直し、恐るべき勢いで夕食の続きにとりかかった。

 ラインハルトの気持ちは複雑だ。ルーカスへの同情心からケーキを買って来て、予想以上の反応を得られた、なのにどうしてこんなにも居心地が悪いのか。端的にいえば、自分はルーカスが見せた思いもよらない親密さに戸惑っているのだ。

 ルーカスを最初にここに連れて来たのはただの父親への意地だった。そして、本格的に預かることを決めたのは、過去の自分と重ねてその境遇に同情したから。居場所のない少年に屋根を与えるが、それはルーカスがギムナジウムを卒業するまでの一時的なものだ。だからラインハルトの個人的な部分には立ち入らせないし、必要以上に慣れ合う気もない。

 ルーカスは健気にラインハルトの決めたルールを守る。しかし孤独を感じているローティーンの少年が、手を差し伸べてきた大人に気を許したくなることは経験上知っている。さらに言えば、その親密な感情が一方通行だったことに気づいたときにどれだけ傷つくかについてもラインハルトは身をもって知っているのだ。

 あっという間に食事を終えたルーカスは、箱を開けて小振りのホールケーキを取り出すと感極まった表情でラインハルトに目をやる。

「ラインハルト、それにしてもどうして急にこんな」

 ケーキだけ食べても喉に詰まるだろう。ラインハルトは立ち上がるとケトルに水を入れてコンロの火にかけるが、それは半分はルーカスの視線から逃れるためだった。

「職場の人から生徒の誕生日会の話を聞いて思い出したんだ。深い意味はないし気にするな」

 ぞんざいな返事をしながら、棚から紅茶の缶を取る。たいした意味ではない、ただの気まぐれ、それでケーキの話は終わらせてしまいたかった。だが、ルーカスはラインハルトの回答の中でも予想外の部分に反応した。

「それって、もしかして前に手作りのケーキをくれた人?」

 一瞬何の話だかわからない。少し記憶を巡らせてから、そういえばルーカスがこの部屋に来て間もない頃、夜道で足をくじいたクララを助けたお礼に焼き菓子をもらったことがあったことを思い出した。ラインハルトは甘いものを食べないので、袋ごとルーカスに渡したのだった。

「手作りかはわからないけど、そういうこともあったな」

 とりあえず誕生日ケーキから話題がそれたことに少し安心した。ルーカスはそのまま黙りこみラインハルトは黙ってコンロを眺める。やがてケトルがシュンシュンと音を立てはじめたのでティーポットに湯を注ぎ、ダイニングテーブルの方を振り返る。

 てっきりケーキを食べるのに夢中で話をやめたのだと思っていたルーカスは、難しい顔をしてテーブルを眺めていた。

「どうした? 変な顔して」

 思わず問いかけると、ルーカスは深刻な表情のままで、少しの間迷うような素振りを見せた後で意外な質問を口にした。

「その人、もしかしてラインハルトの恋人?」

「は?」

 素っ頓狂な声が出たのは、その質問があまりに意外なものだったからだ。毎日ほとんど同じ時間に家を出てほとんど同じ時間に帰宅する、判で押したような生活を送る自分のどこにルーカスは恋人の気配を感じたというのだろう。しかもたった一度菓子をもらったくらいの相手について。

「だって、わざわざ手作りのお菓子くれたり、ラインハルトはその人の言うこと素直に聞いたり、なんか変だよ」

 いじけたような言葉に正直呆れてしまう。だが、十四歳――いや、誕生日を迎えて十五歳になったばかりの少年にとっては、その程度の話が恋愛に結びついてしまうものなのかもしれない。何しろラインハルトだってその年代の頃は愛やら恋やらで頭の中はいっぱいだったのだ。

「……別に変じゃない。クララは社交的なんだ。誰にだって同じような態度をとる。誕生日のことだってただの偶然だ」

「でも」

 ルーカスはまだ表情を崩さない。硬直したままの彼に代わってラインハルトは、紅茶をカップに注いでやりケーキを一切れ皿に乗せてやるが、ルーカスは手をつけようとしない。ラインハルトとクララの関係について疑念が解消するまでは頑なに動かない気なのかもしれない。

「なんでそんなこと気にするんだよ」

 ラインハルトはだんだん苛立ってきた。ケーキひとつに過剰なほど喜んだかと思えば、突然恋人がどうのこうのと機嫌を損ねる。物わかりが良く扱いやすいルーカスに慣れてきたところだったので、久々に気難しい態度を見せられてどうすればいいのかわからない。

「だって」

 語気を荒げたラインハルトに、ルーカスは拗ねたように口を開いた。

「だって?」

 思わず身を乗り出して先を促す。ルーカスはうつむいてテーブルを見つめたままで、言いづらそうに小さな声で、続けた。

「だって、ラインハルトに恋人ができたら、僕はここを出て行かなきゃいけないだろ」

 一気に気が抜けてしまう。ルーカスはただ、自分の居場所を気にしていただけなのだ。

「……そんな馬鹿みたいなこと、気にしてたのか」

 今度は完全に呆れた口調になった。するとルーカスは弾かれたように顔を上げ、威勢よく訴えかける。

「そんなこと、じゃないよ。僕にとっては重要だ」

 確かにルーカスにとっては重要なことなのだろう。彼には頼れる親類もおらず、ここを追い出されたら今度こそ施設に行くしかない。だから奇妙なルールを押し付けられても健気にそれを守り、我慢してラインハルトの元にいるのだ。

 どうしてもこの部屋を出て行きたくない彼にとって、ラインハルトに恋人ができるという事態はできるだけ避けたいに違いない。若い恋人同士が一緒に過ごすようになれば、血の繋がりもない少年など邪魔者扱いされるに決まっているのだから。でも――。

「ないよ、それは絶対に」

 ルーカスのあまりに見当違いな不安がおかしくて、ラインハルトは思わず吹き出した。恋人なんてできるはずがない。ラインハルトは女性を愛することができないし、自分の性癖を隠しているから同性愛者と出会うことない。もちろん万が一お仲間との出会いがあったとしても、今の歪んだラインハルトを愛するような奇特な人間である可能性はゼロだ。

「絶対なんて、どうして言えるんだよ」

 笑われたことが不本意なのか、ルーカスはまだ不機嫌な顔をしている。しかしクララとの仲が特別なものではないことについては理解したのか、ラインハルトが促すジェスチャーをするとケーキの皿を引き寄せた。

「言えるんだよ、俺は。絶対にないって」

 ラインハルトはもう一度、ルーカスへの答えというよりはむしろ自分に言い聞かせるような調子で繰り返した。