Chapter 2|第21話

 ルーカスはあっという間に切り分けたケーキの一切れを食べ終え、さらにもう一切れを皿に移した。見ていて気持ちよくなるほどの食べっぷりだが眺めていると空腹感が刺激される。ケーキなんてもう何年口にしていないだろう。口の奥から唾液が湧き上がってくるのを感じた。本当は甘いものが嫌いだなんて嘘で、体型を維持するために絶っているだけだ。

 まだ実家にいた頃は、成長期以降突然食の細くなった息子を心配して母親は何かと甘いもの――特にラインハルトが子どもの頃に好きだったタルトやケーキをテーブルに並べた。それを避けるために甘いものが苦手になったと宣言した。甘いものも、油を吸ったシュニッツェルも、厚切りのベーコンも、何もかも偏食のせいにすれば避けることができる、そう気づいてからは簡単だった。ただでさえ同性愛騒ぎで父との関係がおかしくなって以降、母や姉も腫れ物に触るようにラインハルトに接していたから、急な食の嗜好の変化についても深く追求されることはなかった。

 苦手だと言い続けているうちに自然とそれが真実であるかのように思えてくる。普段はできるだけ視界に入れないように、存在を気にかけないようにしていることもあり、ケーキやその他の甘いものを恋しく思うことはほとんどない。だが、さすがにこんな風に目の前で美味そうにがっつかれると目に悪い。

 ラインハルトはキッチンから出て行くことにした。ルーカスはケーキを予想以上に喜び、それで今日の目的は果たされた。過剰なほどの喜びの表現に驚き戸惑ったが、ルーカスが一番気にしているのはこの部屋を追い出されないことだと理解した。自分とこの少年との間に必要以上の感情的なつながりは生まれない。

 黙って椅子から立ち上がったラインハルトに向けてルーカスが顔を上げる。夢中になって食べ続けているうちに唇がチョコレートで汚れて、ひどく子どもっぽく見えた。

「そういえば、ラインハルトは何歳なの?」

 思い出したようにルーカスはそう訊ねた。

「……二十二歳」

 答えながら、そういえば自分は彼にそんなことすら話していなかったのだと思い当たる。同居をはじめた頃に交わした三つの約束以外にも、個人的なことを聞かれるとラインハルトはいつも渋い顔をして答えを濁す。そんなことを繰り返すうちに、いつの間にかルーカスはラインハルトに質問をすることは少なくなっていた。

 一体なぜ年齢など気にするのだろうと思うが、ルーカスが続いてこぼしたのは深い羨望のため息だった。

「いいなあ」

 二十二という数字が彼にとって憧れてやまない何かであるかのように、ルーカスはケーキを口に運ぶ手を止めた。

 ラインハルトは思わず笑い出しそうになる。彼が大人になり自立する日を待ち望んでいることは知っているが、放っておいても時間が経てば自然に積み重なっていく年齢についてそんな風な反応をされることはあまりに滑稽に思える。

「そんなに羨ましがらなくたって、たとえ何もせず毎日寝て過ごしてたって、七年後には勝手におまえも二十二歳になってるよ」

「それはそうなんだけど」

 ため息はもうひとつ。まるでたったの数年すら待ちきれなくてたまらないかのように、ルーカスの目はうっとりとどこか遠く彼の思い描く「大人」の概念へ向けられる。だがラインハルトの呆れたような視線に気づいたのか、やがて表情を戻すと思い出したように付け加えた。

「そういえば、ラインハルトの誕生日はいつなの?」

「九月だけど」

「良かった」

 ルーカスは再びため息をつくが、そこに込められているのは羨望ではなく安堵だ。彼が何に安心したのかラインハルトには理解できない。だが、ルーカスはひどく満足そうだ。

「何が良かったんだ?」

「僕の誕生日をこうやって祝ってくれたのに、僕があんたの誕生日を見逃してたら嫌だなと思って。でも去年の九月はまだここに来てなかったから、次が、僕がここに来て最初の誕生日だよね。祝ってあげる」

 今度はラインハルトがため息をつく番だった。やっぱりクララの話なんて聞くんじゃなかった。妙な同情でルーカスの誕生日なんて気にするんじゃなかった。ラインハルトにとって誕生日なんてできれば忘れ去ってしまいたいくらいのものなのに、二十三歳の誕生日はルーカスが騒ぎ立てるというのだろうか。想像したくない。

「居候の分際でそんなこと気にするな。俺は誕生日なんか全然嬉しくないし。……ほら口のとこ汚れているぞ」

 無駄な努力だと知りつつ、ラインハルトは話をそらしてルーカスの頭から「九月」のことを忘れさせようとする。そして、その作戦はある程度成功したのかもしれない。

「えっ嘘。どこ?」

 小さな薔薇色の唇を指で指し示すと、ルーカスは恥ずかしそうに慌てて口元に手をやるが、見当違いな場所を拭うので汚れは消えない。

「違う、もっと左」

「こっち?」

「違うって」

 右だ左だと指示しているうちにおぼつかない手つきがもどかしくなり、ラインハルトは思わずテーブル越しに手を伸ばした。一瞬、予想外に柔らかい唇の感触に怯む。だから、動揺を気取られないように必要以上に指先に力を入れてチョコレートの染みのついた部分をきつく拭った。力の強さに驚いたようにルーカスがぎゅっと目を閉じ、金色のまつ毛が震えた。

「取れた?」

 半開きの濡れた唇からこぼれ落ちる言葉に、まるで責められたような気持ちになってラインハルトは慌てて手を引っ込めた。

「取れた……もっと落ち着いて食えよ」

「はあい」

 触れられた場所に違和感があるのかルーカスは何度かごしごしと唇を手の甲でこすると、再びケーキと格闘しはじめた。