ルーカスはあっさりとしたものだがラインハルトは納得がいかない。自分だって、父親との確執があるからほとんど出入りすることはなくなったとはいえ、生まれ育った家への愛着や思い入れはそれなりにある。まだ両親を失って一年も経たない少年にとってはなおさらあの家は大切なのではないか。
「おい、本当にいいのか?」
ラインハルトは時間に余裕のない朝であることも忘れて、キッチンへルーカスを追った。コンロにケトルを置こうとしている背中に向かい呼びかける。
「思い入れのある家なんだろう。今は学校もあるから仕方ないとして、将来はあそこに戻るつもりでいるんだとばかり」
「うん。考えたんだけどさ」
口を開くルーカスは振り向かない。その肩幅が、背中が、出会った頃より明らかに広くなっていることに改めて気づかされる。
「やっぱりあの家、僕一人では持て余すし……養子の僕が我が物顔であの家で暮らすのも、みんないい顔をしないだろうしね」
後半部分は、口に出すのをためらったのがわかった。
みんな、という言葉に思い浮かぶのは、何度か顔を合わせたルーカスの親戚たち。彼らが死んだハウスドルフ夫妻の養子であるルーカスを厄介に思っているのは、第三者であるラインハルトにもわかった。ラインハルトと彼らとの関わりは、ルーカスをここで生活させることを決めた後で二度か三度呼び出され、養育費や教育費の取り決めについての書類を渡されたきりだったが、その後もルーカスは相続の件などで彼らと連絡をとっていたのだろう。
ラインハルトはなんとなく嫌な気分になった。何も赤の他人である自分を話に加えろと言いたいわけではないが、判断力に劣り立場の弱い子どもを、力のある大人が寄ってたかって言いくるめてしまったのではないかという疑念は拭えない。
ただの家主としての立ち位置を守ると決めた以上、ルーカスの個人的な問題に立ち入るべきではないと思う。しかし、ちょっとした拍子に自分で決めて引いたはずの線にふらふらと引き寄せられ足を取られそうになるのは、誕生日のときと同じだ。物理的な距離が近すぎて、節度を持った接し方がときどきとても難しい。
「もう少し待って、よく考えてからでもいいんじゃないか?」
まさか「親類にいいようにされているような気がする」とは言えないから、あまり深刻にならないように、やんわりと再考をうながそうと試みる。
「人が住まない家は傷みが早くて、価値が下がるらしいよ」
親類だか不動産屋だかに聞かされたのであろう言葉をそのまま伝えてきたルーカスは突然振り返り、ラインハルトを正面から見た。
「それともあんたが僕とあそこに住んでくれるの?」
表情も言葉もあまりに真剣そのものだったから、ラインハルトは思わず言葉に詰まった。ルーカスと家族との思い出でいっぱいの、あのこじんまりと温かく感じのいい場所で自分たちが一緒に暮らす――そこでハッとする。こんなことルーカスだって本気で言っているはずはない。
「……馬鹿言うな。俺はふざけているんじゃなく、ただおまえが将来後悔しないかどうかを気にしているんだ」
平静を装ったにも関わらず動揺が気取られてしまったのかもしれない。ルーカスはいたずらに成功した子どものように、しかし微かに失望を含んだ調子で「冗談だよ」と笑った。その表情にラインハルトは一瞬ひどく居心地の悪い気分になるが、なぜなのかはわからない。
「心配してくれるのは嬉しい。でも本当に大丈夫なんだ。確かにあの家は僕にとっては大切な場所だったけど、両親の思い出は別に家そのものにあるわけじゃないし。正直僕はあまりそういうのは……」
ルーカスの顔からすっと潮が引くように笑いが消える。そして少しだけ目を伏せて付け加えた。
「僕は、僕を引き取って育ててくれた両親にとても感謝しているし決して忘れることはない。それだけでいいんだ」
深い愛情と奇妙な他人行儀さの混在した声色。養子である彼が両親に抱く感情は、ラインハルトが想像する以上に複雑なものなのだろうか。
「何年一緒にいたんだ?」
ラインハルトは思わず訊ねる。
「十年くらい。物心ついてからはほとんど一緒だったから、多分普通の親子とあまり変わらないよ」
確かその前は戦災孤児として施設にいたのだと言っていたから、ルーカスの両親は先の大戦で亡くなったのだろう。
ラインハルトは十二歳で終戦を迎えたが、疎開から戻り学校がはじまれば、同級生の中にも父親を戦地で失ったり家族を空襲で失った者は少なからずいた。もちろん本人が戦災に遭い戻ってこないケースだってあった。自分自身の家族が全員無事で、実際に空襲の光景も見ていないラインハルトにとって様変わりしたウィーンの姿は大きなショックだったが、戦争の本質的な残酷さは十分には理解できていないのかもしれない。
「僕は本当の両親のことは何も知らないんだ。名前や、どこのどんな人なのか、どうやって死んだのかも」
ルーカスはそう付け加えた。四歳でハウスドルフ夫妻に引き取られたということは、施設に入ったのはもっと幼い頃ということだ。ルーカスの記憶がないことは仕方ないとして、両親の名前すらわからないというのはあまり普通ではないことのように思えた。
「養父母は、引き取るときに経緯を聞いていたんじゃないのか?」
「どうだろう。父さんと母さんはもしかしたら少しくらいは何か知っていたのかもしれないけれど、施設での生活を辛いものだと思っていたのか僕に対しては話題に出さなかった。僕も聞かなかった。前も話した気がするけど、施設の人たちも優しくしてくれたし、両親との生活が幸せだからそれでいいと思っていたんだ」
うっすらと笑みを浮かべてそう話すルーカスの言葉が本音なのか、あきらめからくる強がりなのかは判別がつかない。
本当の両親を知らないというのはどういう感じだろう。ラインハルト自身は父親との間にほとんど断絶といっていいほどの不和を抱えているが、それはそれとして祖父母や両親、姉との関わりの中で自分に流れる血やルーツについてはごく自然に感じながら育った。決して嬉しいことではないけれど自分の気難しさや頑固さは父親と良く似ていると思うし、眉や唇のあたりは母親に似ている。だがルーカスにはそういった、自分のちょっとした美点や欠点を重ねられる相手がいないのだ。
思わず黙り込むラインハルトは、ルーカスの声にハッとする。
「何暗い顔してるの、ラインハルト。要するに僕は家を処分することには納得して賛成しているってわけ。だから日曜は片付けで留守にするよ」
必要以上に明るい声色。これ以上自分の過去についての話題を続けたくない――そんな強い意思が言外に感じられた。
「あ……ああ、わかった」
ラインハルトは、ルーカスの気持ちがわからないと思った。人が正しく他人の気持ちを理解することができないという当たり前のことを別にしても、これまで過去の自分自身とルーカスを重ねて勝手に嫉妬したり同情したりしてきたこと――もしかしたらそれすらひどい間違いだったのかもしれないと思うくらい、今のルーカスは遠く見えた。