Chapter 2|第24話

 予告通り日曜の朝からルーカスは出かけて行った。その顔に一切の暗さはなく、よっぽど演技が上手いのでなければ彼は心底から両親との思い出の残る家を処分することに迷いを持っていないのだろう。

 ラインハルトはルーカスのある種の割り切りの良さを見せつけられたことに内心では動揺していた。一方でそれがルーカスの――ラインハルトからすればいささか特殊に思える生育歴によるものなのかもしれないと思えば、これ以上何かを言う気にもなれない。

「夕方には戻るよ」

「ああ」

 こだわっているのはルーカスではなく自分だ。あの家にも、ルーカスの両親や思い出に対しても。最初からラインハルトはルーカスと自分自身を重ねて、それを理由に自分のそばに置いてきた。だからルーカスが思い描いた姿から逸脱することが怖いのだ。頭の中ではもちろん彼がひとりの独立した人間であることはわかっているはずなのに、ルーカスが想像を超える感情を持ち行動することに対して不安を感じずにいられない。

 落ち着かなくてコーヒーを三杯飲んだ。それでも落ち着かないから家を出ることにした。行き場はないが、家でくさっているよりは公園でも散歩していた方がよっぽどましだ。

 普段のラインハルトの行動は定型化されている。小学生たちが登校する前にひと仕事終えるために早すぎる時間に家を出る。昼間に自由な時間がある代わりに解放される時間はやや遅いから、仕事を終えるとまっすぐに家に帰る。もっとも早く終わったからと言って遊びに行くような場所も友人もいないのだが。

 休日の穏やかな日差しの中、のんびりとした気分で街を歩くのは久しぶりで、新鮮な空気を吸えばルーカスのせいでもやもやとした気持ちもすっかり晴れてしまうのではないかと思った。

 しばらく歩くうちに、今ではすっかり数が少なくなった外国人兵士とすれ違う。終戦直後は至るところで彼らの姿を見かけたのに、十年の間に少しずつ姿を減らし最近ではほぼ見かけることもなくなった。そういえばあんなにぼろぼろだった街の復興もいつの間にか進み、今では戦争の惨禍を感じさせる光景もごくごく少なくなっている。十年とは、それだけの時間なのだろう。

 オーストリアは先の大戦を、ドイツ――アドルフ・ヒトラー率いる第三帝国の一部として戦った。今では多くの人がそれを過ちだと言うが、当時武力で占領された国々や、脅迫されて併合を選ばざるを得なかったチェコスロバキアとは異なり、オーストリアの併合はいくら国内のナチ党員が主導したものであるとはいえ、国民の多くが望んだものだった。幼かったラインハルトに当時の記憶はないが、父親は強硬な併合反対派だったと聞く。だがそれは熱心なカトリック教徒たちがドイツからのプロテスタントの流入を警戒していただけで、国全体からすればごく限定的な一部の人間の声にすぎなかった。

 多くのオーストリア国民が第三帝国の国民として戦争に行き、そこで死んだ。ウィーンの街も第三帝国の都市のひとつとして連合国軍から激しい空爆を受け、多くの命や文化的資産を失った。そしてオーストリアは一定程度はナチの被害者としての立場を認められながらも侵略戦争の加害者として終戦を迎え、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の四カ国から分割統治を受けることになった。

 そのウィーンはもうすぐ占領を終える。つい一週間ほど前にオーストリアは主権回復のための条約に署名したのだ。正式な独立はもう少し先の話になるが、そうすれば間もなく残された占領軍もこの街を去り、本格的にオーストリアは戦争の終わりを迎える。

 職場で聞く教師たちの雑談やちらりと読んだ新聞の論調など、世の中は概ねこの国の主権回復に好意的であるようだ。自由国家オーストリアを知る人々からすれば、ようやく国が正しい姿に戻ると感じているのは不思議ではない。決して様子を見に行ったりはしないがきっと実家の父母も喜んでいるだろう。

 だが、一番戦争のひどい時期を疎開先で過ごし、十二歳でウィーンに戻ってきたラインハルトにとって戦前のウィーンの印象は薄い。ぼろぼろの街並みに、見慣れぬ軍服を着て聞きなれぬ言葉を話す異国の軍人達に驚いたのは最初の頃だけで、すぐに何もかもは生活の一部になった。ラインハルトにとってこの街が占領されていようがいまいが、そんなことはほとんどどうでもいいことのように思える。

 久しぶりに歩く通りで角にある大きな建物が取り壊されているのを見た。そこはラインハルトがかつて通っていた実科学校への通学路で、以前は毎日二度必ず目にしていた光景だ。なのにいざ解体される建物を目にすると、それが何だったのか思い出せない。ずいぶんと大きな建物だから役所か学校か何かだっただろうか。思わず立ち止まったところで通りすがりの中年女性たちがひそひそと交わす会話が耳に入った。

「ねえ聞いた? ここの病院のこと」

「ええ、とても信じられないけど本当なら嫌だわ。うちの子も小さい頃かかったことがあるのよ。もし入院でもしてたらと思うとぞっとして」

 その言葉で、ここが小児病院だったことを思い出した。比較的規模が大きく、確かにラインハルトもはしかにかかったときに母親に連れられて受診したことがある。特に嫌な思いをした記憶はないしごく普通の小児病院だったと思うから、女性たちの嫌悪むき出しの話ぶりは何となく気になった。

「本当にひどい話よね。患者を人体実験に使ってたって話じゃない。恐ろしいわ。メンゲレみたいな医者がこんなところにもいたなんて」

「そんなこと知ってたら誰もナチなんて支持しなかったわ。本当、騙されてひどい目にあったものよ。占領も終わればやっと元のウィーンを取り戻せるわ」

 少しずつ遠くなる声を聞きながら、ラインハルトは改めて半分以上が瓦礫と化した建物を眺めた。彼女たちの話している内容が本当のことなのか、ただの噂話なのかはわからない。しかし実際に幼い自分もかかったことのある病院が実はナチの悪名高い人体実験の一端を担っていたのだと聞くとぞわぞわと背筋を冷たいものが這い上がるようだった。

 自分自身の生活から戦争の色は消えた。しかしまだまだこうして、見えない場所に多くの傷跡は残っている。例えばルーカスだって、戦争で失った本当の両親のことや生い立ちを一生背負っていかなければいけないのだ。

 頭では、たったの十五歳の彼が背負うものの重さを理解している。惚れた腫れたでこの世の終わりのように大騒ぎをして今だにそれを引きずっている自分の幼稚さと比べて、自分の運命に向き合い自立という方法でそこから抜け出そうとしているルーカスがよっぽどしっかりしているということも。でも、それでも。

 せっかく気分が良くなりかけたところで、また余計な考えごとにとらわれる。これでは何のために家を出てきたのかわからない。ひとつ小さく深呼吸をして顔をあげたところで――ラインハルトははっと息を飲んだ。

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