Chapter 2|第25話

 それはまったくの偶然だった。

 顔を上げた先。数メートル離れた交差点に立つ黒髪の長身の男の横顔が偶然視界に入ると同時に、ラインハルトの視線はそこにフォーカスする。

 どん、と心臓を叩かれるような衝撃。それと同時に腰から下の力が抜け、その場に崩れ落ちてしまいそうな感覚。しかしその男から視線を外すことは出来ない。わずかにウェーブのかかった黒い髪。意志の強そうな太い眉と、賢そうな瞳。頰や首のラインはすっかり大人びてしっかりしたものになり、背も伸びている。だが、ラインハルトにはわかる。

 ――オスカルだ。

 でも、まさか、と否定したがる自分もいる。あれから八年間、一度だってウィーンでオスカルを見かけることはなかった。だから彼はもう二度とここに戻ってくることはないし顔をあわせることもないのだと思い込み、ラインハルトはそのことに少しばかりは落胆しながらも安心していた。二度と会わないのならば醜くなった姿を見られることも、彼の心変わりを直接に聞かされて傷に塩を塗り込まれることもないのだと。

 往来する車が途切れたのを見計らって黒髪の男は一歩踏み出す。春の終わりにしては暑い日で、スーツを着込んでいては汗ばむのだろう、彼は上着を脱いで腕にかけていたが、さらに何気ない仕草でシャツの袖をまくった。

 ラインハルトはもう、どんな言葉を使ってもそれがオスカルであることを否定できなかった。右の肘のあたりにあるコイン一枚分の大きさの黒い痣を、彼はいつも気にしていた。体質的なものらしいし、賢くスポーツにも優れたオスカルをたった痣のひとつくらいでからかう子どもはいなかったが、それでもオスカルは自分の体にある数少ない欠点が許せないようで、たびたび「ラインハルトはいいな、染みのない真っ白な肌で」と言った。だが、あんな風に無防備に袖をまくるということは、大人になった彼にとって肘の痣はもはやコンプレックスではないのだろう。

 オスカルは道を渡ると、急ぎ足でラインハルトの立っているのとは反対の方向に向かい消えていった。

「嘘だろ……」

 しばらく立ち尽くして、ようやく口から出たのはそれだけ。

 だが、嘘ではない。顔だけならば似ている人はいるかもしれないが、あの特徴的な痣まで一致しているのだから、絶対にオスカル本人だ。いつの間にスイスから戻ってきたのだろうか。彼はラインハルトと同じ年齢だが、寄宿制のギムナジウムのような教育校に編入したと聞いたから、おそらく大学生だろう。別の街の大学に通っていて偶然今日はウィーンに帰省しているのか、もしくは今まで偶然出くわさなかっただけで、もうずっとここにいたのか。

 ラインハルトとの同性愛的な関係を知られたことで、オスカルは彼の両親の手でスイスに送られた。だが、オスカルの家族はずっとここウィーンにいるわけで、つまりオスカルが永遠にこの街へ戻らないという保証などどこにもなかった。十四歳のあれが永遠の別れで二度と彼の顔を見ることもないというのはただのラインハルトの思い込みで、現に今オスカルは、走ればすぐに追いつけるくらいの場所にいる。

 湧き上がるのは恐怖だ。オスカルにこの姿を見られたくない。いや、オスカルの知る自分とは似ても似つかぬ姿に変わり果てているからきっと気づかれない。でも、もし気づかれなければそれはそれで自分は傷つくだろう。

 ようやく震えの止まった脚を動かし、ラインハルトはやってきた道を戻りはじめた。ゆっくりと歩きはじめ、やがて早歩きに、ついには走り出す。少しでも遠くに、オスカルから――過去の傷を抉りかねない危険から――逃げなければ。頭の中はそれだけだった。

 オスカルへの想いが残っているわけではない。幼い恋心はどろどろとした醜い毒に変わりラインハルトの体の奥にこびりついている。容姿へのコンプレックス、人に心を開くことへの恐怖、家族との不和、何もかもはあそこがはじまりだった。

 いつの間にかアパートメントの前にたどり着いていた。普段運動もしない上にひどく痩せた体は久しぶりの全力疾走で完全に力を使い尽くしている。肩で大きく息をしながら、体を引きずるようにして一段一段階段を上がり、部屋に入ると誰に追いかけられているわけでもないのに念入りに内鍵をかけた。

「はあ」

 大きくひとつ息を吐き出した瞬間、胃が痙攣した。慌ててバスルームに駆け込み便器に向かってしゃがみこむと、ラインハルトは一気に胃の中のものを全て吐いた。嘔吐は一度では終わらず、二度、三度。涙を流しながら胃液だけになっても嘔吐を続けた。

 これ以上何も出すものがなくなって、ようやくのろのろと立ち上がるとラインハルトは洗面台で口をゆすぐ。顔を上げると鏡には疲れ果てた顔をした男が映る。毎朝毎晩こうして向かい合っては失望させられる顔と体だが、今この瞬間は失望や絶望を超えて、殺意すら抱きたくなるほどだった。

 今までだって、人目を避けるように暮らしていた。でも、この街にオスカルがいると、オスカルに出会うかもしれないと知ってしまった以上、ラインハルトにとってウィーンはこれまで以上に落ち着かない場所になった。

 会いたくない。見られたくない。そう強く思う一方で、心のどこかにまだ、今の自分をオスカルが認めてくれるのではないか、肯定してくれるのではないかという期待が残っているのを知っている。知っているからこそ、こんなにも惨めでたまらないのだ。

 十年近く前の、普通ならば「あの頃はガキだったから」で済まされる微笑ましい思い出は呪いに変わり、その呪いに取り憑かれた自分は一体どうしたら自由になれるのだろう。

 ラインハルトはバスルームの棚を力任せに開けると、買い置きしてあるヘアブリーチの箱をつかんだ。前回染めてからまだ一週間ほどしか経っていないから、自分の髪はまだ美しい金髪を保っているのは知っている。でも我慢できなかった。服を着たままでシャワーの水を浴び、髪を濡らすと箱から出したブリーチ剤を髪に塗りはじめた。