Chapter 2|第26話

 シャツに匂いのきつい薬剤がつくのも構わず、ラインハルトはただ髪の脱色作業に夢中になった。いくら食事を制限したって成長しすぎた体が縮むことなどありえないが、栗色の髪は薬剤を使えばかつてのような金色に戻すことができる。

 青い目以外のなにもかもが気にくわない自分の肉体の中で唯一コントロール可能であるのが髪の色で、だからこそ不安に襲われたとき、強いストレスにさらされたときに脱色剤を手に取る。まるきり依存症だというのは自覚しているが、どうしたって止めることなどできない。

 気づけば服を着たままの全身はずぶぬれで、周囲にはブリーチが入っていた空箱やボトルが散乱していた。

 今、何時だろう。ふいに思い立って洗面台に置きっ放しの懐中時計をのぞくと、もう夕方を過ぎていた。確か朝出て行くときにルーカスは、そんなには遅くならないと言っていた。もし帰宅した彼がバスルームの惨状を目にしたら。いや、もちろんルーカスにはラインハルトがバスルームを使っている間は絶対に中をのぞくなとは言ってあるし、一度だってその約束が破られたことはないのだが。それでも、もしこの異常な自分を見られたら――。

 ラインハルトはのろのろとした動きで水を吸って重くなったシャツを脱ぎ、ズボンを脱ぎ、下着まで取り去った。ずぶぬれの状態でバスルームを出れば部屋を水浸しにしてしまい、その後の後片付けがますます厄介になることを予想するくらいの正気はまだ残っている。棚から出したタオルで髪をぬぐい、裸の体をぬぐい、汚れた服は水気を絞るとそのままゴミ箱に投げ込んだ。どうせ薬剤で汚れてもう使い物にはならない。ついでに床に散らばった空き箱や空きボトルも拾い集めていっしょくたに捨てる。

 薬品くささはともかくとして、バスルームが見た目だけでも普通の状態になったことに安堵して、ラインハルトは裸のままリビングを横切って寝室へ向かうとクローゼットから新しい衣類一式を出して身につけた。こざっぱりとしたシャツを着てひとつ大きな深呼吸をし、その瞬間だけはいくらか気持ちが落ち着いた気がしたが、ベッドサイドのテーブルに置いたままの十字架を目にするとまたさっき目にした男――オスカルの横顔を思い出して動悸が激しくなってくる。

 もう、幼い少年ではないはずなのに、どうしてこれっぽっちのことにひどく取り乱してしまうのだろう。いや、あの頃より今の方がよっぽど自分の心は弱く脆い。

 父に見捨てられた頃、オスカルと離ればなれになった頃、どうやってあの辛い日々をやり過ごしただろう。大切な人たちどころか生まれてこの方絶対的な愛情で自分を守ってくれていると信じていた神様にすら見捨てられる罪を犯したのだと恐怖に震えた。あのときのラインハルトがそれでも一度は笑顔を取り戻すことができたのは、なぜだっただろうか。

 湿ってかび臭い、半地下の小さな部屋。迷惑そうな口調で、それでも自分を受入れ居場所を作ってくれた友人たち。彼らとて最後には嘘と裏切りを残して消えてしまったが、それでも自分にとって必要だったのは居場所と、そこで一緒にいてくれる人だった。

 その瞬間、ラインハルトの頭に浮かんだのは父でもなければオスカルでもない。もちろん消えていった友人であるレオやニコでもなかった。

「……助けてくれ」

 喉から出るのは思いもよらない言葉。そしてその声を向けた相手は、もうじきここに戻ってくるはずの少年だった。

 ラインハルトはルーカスのことを思った。姿こそ妬ましいほどに美しいが、家族に恵まれない哀れな子ども。同情し、庇護してやるべき孤児。本当はこんなことしたくなかったが、成り行き上しかたなく預かっただけの、そのルーカスの姿を今ラインハルトは狂おしく求めているのだった。

 彼が普段通りの顔をして帰ってきて、久しぶりの家の様子がどうだったとか、こんな懐かしいものを持ち帰ってきたとか、帰りに学校の友達と偶然会ったとか、そんな他愛のない話を聞かせてくれればきっと自分は日常に戻れる。さっき見た男の姿は何か悪い夢だったと思って、押しつぶされそうな不安も恐怖もどこかへ追いやってしまうことができる。それだけが希望だった。

 やがてドアに鍵の差し込まれる音がした。ルーカスが帰ってきたのだ。

 その物音、気配だけでも少しだけ暗闇から引きずり出してもらえたような気がしてラインハルトは顔を上げる。金色どころか白銀に近い色になった髪の毛はびしょびしょに濡れて何度も嘔吐したせいで目は血走っているはずだ。異様な姿に驚かれるかもしれない。それでもラインハルトはささいな日常を取り戻すために、今すぐにルーカスの姿を見たいと思った。

ゆっくりと歩を進めリビングへ向かう扉を開ける。

 ただいま、といつものように声をかけてくる姿を想像した。金色の髪を揺らして、細い手足はしなやかに、彼はラインハルトに帰宅の挨拶をするだろう。

 だがルーカスの様子は普段と違っていた。最近の彼には珍しく、まるで出会った当初によくやっていたように自分自身の足下をじっと眺めて立ち尽くしている。ラインハルトの気配に気づいたのか一瞬顔を上げるが、視線が合いそうになるとそのまま気まずそうにそらした。

「……おかえり」

 あまりに予想と異なる反応に、思わず口を開いたのはラインハルトだった。するとルーカスは顔も上げないまま「ただいま」とつぶやくと、力なくソファに座り込んで不機嫌そうに顔を伏せてしまった。

 ラインハルトはそれ以上何も言えなくなる。さっきまで密かに抱いていた期待――ルーカスが帰ってくればこの部屋の雰囲気を変えてくれる、不安を消し去って日常を取り戻してくれる、そんな甘い考え何もかもは裏切られた。そして、思う。

 日常とは、なんだっただろう。人と関わるのが苦手で、醜い自分の姿が恥ずかしくて、同性愛者である罪がばれてしまうのが怖くて、ひとりの殻に閉じこもっていた。秘密基地のような小さな部屋にこもって必要以上誰にも会わず、それでなんとか生きるためのバランスを取っているつもりだった。

 でも、ほんの出来心でルーカスをここに招き入れ半年以上。できるだけ関わらない、個人的な部分には立ち入らせない。いくらそんなことを言ったところで少しずつ部屋には彼の荷物が増え、日々彼の姿があることに、彼の声がすることに慣れ、ひとりではない生活が当たり前になっていた。

 立ち入らないでほしい。そんなことを言いながらさっきの自分は何を望んでいた? ルーカスが驚いた顔をして駆け寄ってきて「どうしたの、その髪」と、心配そうに訊ねてくることを期待したのではなかったか。問われたところでラインハルトは不機嫌な顔で理由を答えないだろう。七つも年下の少年に大人げない態度を取って、そのまま無言で寝室にこもってしまっただろう。

 それでも自分は彼の言葉を、いたわりを求めた。そして今求めた優しさを得られないことに密やかに傷ついている。ラインハルトはそのことに絶望した。