ひどいめまいがする。ふらつく足でなんとか用務員用の準備室まで戻ってきて、電池が切れたように床にへたりこむ。
電球が切れたから替えて欲しいと言われたラインハルトは一年生の教室まで行った。脚立に乗って天井を見上げた瞬間ぐらりと視界がにじんだが、ぎりぎりのところでこらえることができた。少し休めばきっと落ち着く。目を閉じて、深呼吸をしながら頭の中でゆっくりと数字を唱えていると、騒々しい足音が廊下を近づいてきた。
嫌な予感がする。そう思った瞬間、施錠していない扉が開き高い声が響いた。
「ラインハルト、大丈夫なの? さっきふらついてたじゃない」
十七まで数えたところで無遠慮な客人のせいで中断だ。おっくうな気持ちを押しとどめて薄目を開けると心配そうにのぞき込んでくる赤い唇が目に入った。案の定クララだ。彼女を嫌っているわけではないが、今は声も聞きたくないし顔も見たくない。ただそっとして欲しかった。
「……仕事中には声をかけないで欲しいって言っただろう」
苛立ちまぎれにクララにそう告げたのは先週のことだ。天真爛漫な彼女は仕事中でもラインハルトを見かければ声をかけてくるし、週に数度はこの部屋を訪れて世間話や愚痴をこぼしていく。それを迷惑だと本人を前にはっきり口にしたのだ。そのときは「わかった」と言って引き下がってくれたが、さっき立ちくらみを起こしそうになったのが運悪くクララの受け持つクラスだった。なんとか電球の交換を終えて引き上げる最中、内心では彼女が追ってくるのではないかと憂鬱な気分でいたが、案の定だ。
「出て行ってくれ。ちょっと疲れているだけなんだ」
だめ押しの言葉を吐いたつもりでいたが、聞こえてきたのは大きなため息。そしてクララは普段の気安い友人のような話し方ではなく、改まった口調で切り出した。
「ねえ、ラインハルト。こういう言い方もなんだけど、最近あなた変よ。何があったの?」
彼女が受け持っている子どものいたずらをとがめているところを見たことがある。正面から顔をのぞき込み、声を荒げることなくしっかりと言い分を聞き、その上でしっかりと言うべきことは言う。今のクララの顔はそのときとまるきり同じだ。自分は彼女にとっては小学校に入りたての子どものように幼く未熟に見えるのだろうか、とラインハルトは惨めな気持ちに襲われる。
「元々痩せていたけれど、最近はあんまりに……」
目に余る、と言いたいのだろうか。
確かにここ数週間で目方は減った。量ってみたわけではないが、シャツの首回りはゆるくなり鏡に映る姿が明らかにやつれていることには自分でも気づいている。しかし、ラインハルトは痩身のために食事を減らしているわけではない。それどころか体力が落ちて日常生活にすら影響が出はじめていることを自覚してからは、むしろ意識的に食事を摂るよう心がけてすらいる。ただ、ひどく体調が悪く食べたものをほとんど吐いてしまうのだ。固形物を胃が受け付けようとしない。
もちろんこんな風になったのはあの日、オスカルらしき男を見かけた日からだ。そしてそれはラインハルトが、自分がルーカスに依存しかかっていることに気づいた日からであるともいえる。
「大丈夫、急に暑くなったから少し体調を崩しているだけなんだ。すぐに慣れる」
どうにかしてクララを遠ざけたくて、ラインハルトはでまかせを口にする。何でもいい、彼女が納得してここを出て行ってくれれば。自分を放っておいてくれれば。
でも、そんなに簡単にいかないことはわかっている。過剰に脱色された髪、痩せた体に疲れ果てた表情。自分がクララの立場だったとして、どうしたって目の前の男をまともだとは思えないだろう。しかも彼女はとっておきにお節介な女性なのだから。
「ねえ、変な意味には受け止めないで欲しいんだけど」
クララは予防線を張ってから、ひとつ息を吸い込んで続きを口にした。
「あなたがそんなひどい様子でいて、一緒に暮らしている人は何も言わないの? それともその人が原因であなたはそんな風になっちゃっているの?」
ラインハルトの脳裏に、憂鬱そうな少年の姿が浮かび、そして消える。ルーカスのこと――それは今のラインハルトにとっては一番触れられたくない話題だ。もしかしたらオスカルの話以上に。
「聞こえなかったのか?」
「え?」
普段より低い声に、クララの声色に動揺が走るのがわかった。ラインハルトは顔を上げると、ほとんどにらみつけるような視線を彼女に向ける。そして出せる限り最も冷たい声色で告げた。
「出て行ってくれって言っただろう。君に話すようなことは何もない」
クララが息を飲むのがわかった。傷つけた、それは確かなことだ。だが、いったん口をついた言葉は止まらない。
「そもそも俺は、教師ってやつは好きじゃないんだ。君にとっては、学もない用務員相手にくだらない話をするのは仕事中の暇つぶしにいいのかもしれないけど、俺は前々から迷惑だって思っていた」
それは半分事実で、半分事実ではない。確かにラインハルトは教師全般が好きではないし、若く目立つ女性教師であるクララがここにやってくることで学校で自分の存在が悪目立ちしては困るという気持ちもあった。しかし知り合って時間が経つにつれて、彼女がたまにここを訪れてくだらない話をしていくことはラインハルトにとっての日常になった。それは例えばルーカスの存在があの小さなアパートメントにしみこんでいくのと同じ、自分では意識しないくらいのゆっくりとした速度で――しかし密やかに確実に張り巡らされる根は、ラインハルトを弱く脆くする。
クララは黙っている。表情には多少のショックが見えるが、気丈な彼女はまだ動こうとしない。だからラインハルトはよりひどい言葉を投げるしかないところへ追い詰められる。
「これ以上まだ言わせる気か、迷惑だって」
ラインハルトだって馬鹿ではない。クララには悪意も下心もないことはわかっている。一部の教師がやるみたいに用務員を見下して、面白がって話しかけているのではない。出会った直後こそ彼女の視線からほんの少しの媚びるような感情を読み取ったが、それもすぐになくなった。彼女はただ気安く話すことのできる友人としてラインハルトを慕ってくれていた。ただ、それを受け止めるだけの余裕が今の自分にはない。
寛容な態度を保とうと必死に努力しているようだったクララの顔色は強ばり、何度もまばたきを繰り返す。理不尽な侮辱に怒りを爆発させたっておかしくはない。泣き出したっておかしくはない。しかし、彼女はぎりぎりのところで矜持を保った。
「……あなたが心底迷惑だっていうなら、もう話しかけない。さっき私の言ったことがあなたの恋人を悪く言ったように聞こえたなら謝る。でもあなた最近自分の顔を鏡で見た? 友人として心配なのよ。お願いだから一度病院に行って」
そしてクララはやってきたときの賑やかさとは対照的な、ひどく静かな様子で部屋を後にした。
ラインハルトは再び目を閉じる。善意に溢れる若い女性に向かってこんなひどい態度を取るほどに自分を追い詰めたのは一体誰だ。あの日あんな場所に現れて心をかき乱していったオスカルだろうか。ラインハルトの心の声に一切気づかず素っ気ない態度をとったルーカスだろうか。いや、違う。これが人のせいなんかであるはずはない。何もかもは自分の弱さのせいだ。
自分が思いのほかルーカスとの生活になじみ、彼を精神的な支えにしようとしていることに気づいたことにはひどいショックを受けた。だが、それ以上にラインハルトの気持ちを不安定にさせるのは、あの日以来続くルーカスの奇妙な態度だ。
理由はわからないが、あの日からルーカスの様子がおかしい。