Chapter 2|第28話

 あの日、売却を決めた実家の片付けから戻ったルーカスはいつもと違っていた。うつろな様子でラインハルトの方を見ようともせず、普段の旺盛な食欲が嘘のように夕食もとらないまま毛布をかぶってしまった。そして、あれから十日以上経つが、今も同じような状態が続いている。

 同じ屋根の下にいるがろくに口も聞かず、心は閉ざしたまま。まるで出会った当初に戻ったかのようだった。

 少し前までのルーカスは、毎朝ラインハルトの起床とあまり代わらない時間に起き出してはお茶やコーヒーを淹れ、いくら「そんなことしなくていい」と言っても必ず出勤を見送ってくれていた。だが今のルーカスは頭までしっかりと毛布をかぶったまま、ラインハルトが部屋を出て行くまで決してそこから顔を出そうとはしない。避けられているのは明らかだった。

 一晩くらいならば体調もしくは機嫌が悪いというようなこともあるのかもしれない。だが十日以上もこの状態が続いているのだから、おそらくルーカスには何か明確な理由があるのだろう。彼がラインハルトに対して再び心を閉ざす、確かな理由が。

 あの日の朝のことを思い出してみるが、特に変わったことはなかったと思う。そうするとやはり、帰宅したときに何かを感じたのだろうか。ラインハルトの記憶では、家に戻った瞬間からルーカスの様子はおかしかったような気がするが、もしかしたらそれすら記憶違いだったのかもしれない。オスカルの姿を見た動揺で、あの日のラインハルトは異様な行動をとったことを自覚している。ルーカスはそんなラインハルトに驚き恐怖し、愛想を尽かしたのではないか。そんなことすら考えてしまうほどだった。

 不安になるのは後ろめたさのせいだ。自分がおかしな習慣を持ち、ルーカスに理不尽なルールを押し付けていたことはわかっている。しかもそんな奇妙な家主が、ある日帰宅すると目を血走らせて髪を極端な色に脱色している――あのときのラインハルトの姿を見たルーカスの中でプツリと何かが切れたのだとしても不思議はない。一方で行き場所のない彼はこの部屋を出るわけにもいかないから、恐怖や嫌悪を我慢してここにとどまり、精一杯の自衛としてラインハルトとの接触を最小限に抑えている。そんなことはないだろうか。

 ここ最近のルーカスの振る舞いはラインハルトを動揺させた。体調不良の最大の理由はオスカルとの再会ではなくこちらなのかもしれない。そう思うほどに。

 いったい何の天罰なのだろう。自分は意図せずルーカスとの生活になじみ、彼の存在に救いを見いだしかけている――そのことを自覚した途端にあからさまに嫌われ避けられるようになるなんて。こんな風に同じ屋根の下でよそよそしい態度を取られるのはひどく傷つく。もしも本当にルーカスがここから消えてしまえば、彼や彼の荷物のなくなった部屋で自分は何を思うのだろうか。少し想像してみただけでラインハルトはどうしようもない気分になる。

 覚悟をしないといけないのに。オスカルだって、ニコだってレオだって、気持ちを移した相手は例外なくラインハルトの前を去った。家族すら許容できない性癖を持つ息子をもてあました。だからきっと、ルーカスも。

 死刑執行を待つような感覚だ。毎日毎日同じ屋根の下にあの少年の気配を感じ、しかし互いにできる限り存在に触らないようにして暮らしている異様さ。こんな生活、長くは続けられない。しかし本当にルーカスがここを去ると言い出したら、その空白に耐えられる自信はない。

 眠れない、食べられない。そして、クララを拒絶した翌日、とうとうラインハルトは仕事中に倒れた。

 もう何度目かわからないが、常習犯の野良犬が校庭に入り込んで花壇を荒らしているという連絡を受けた。駆けつけるとすでにそこに犬の姿はなく、柵の壊れた花壇の内側に子どもたちが育てた花の苗が一部掘り起こされて散乱していた。ラインハルトはしゃがみこみ、苗を拾い集めてはダメージの少ないものは植え直し、再起不能なものはゴミ袋に入れていく。立ったり座ったりの作業が負担になったのかもしれない。ようやくすべての処理を終えて立ち上がった瞬間――ぐらりと、天と地が裏返った。

 目を開くと白い天井が見えた。アパートメントの寝室でもない。実家の部屋でもない。一瞬自分がどこにいるのかわからず、混乱と動揺の中で慌てて体を起こそうとすると再びめまいにおそわれ頭が枕に沈み込んだ。

「あら、目が覚めた?」

 年配の女性の声がする方向へ視線を向けるが、最初はうまく目の焦点があわなかった。身動きがとりづらいと思ったら左腕の肘裏あたりに針が刺さっていて、そこからはチューブが伸びている。ぼやけた視線でチューブをたどり、行き着いた先に点滴のバッグを認めてようやく自分が病院にいるのだと知った。

「俺は……」

 つぶやくと、ようやく鮮明になった視界の中をさっきの声の主が近づいてくる。年配の看護婦は横になったままのラインハルトを見下ろして笑った。

「あなた、学校から運ばれたのよ。仕事中に倒れたんですって。大事じゃないって言ったから付き添ってくれた事務員さんももう帰ったけど、点滴が終わるまではじっとしてなさい」

「倒れた?」

 花壇の整備をしていたところまでしか記憶はない。いつの間に倒れここに運ばれたのだろう。職場で騒動を起こし迷惑をかけたと思うとぞっとする。立場が弱く簡単に替えのきく用務員だから、ちょっとしたことで首にならないとも限らない。

「こんなに痩せてちゃ倒れるのも当然だわ。まともに食べていないでしょう」

 点滴の針を確認しながらラインハルトの細くなった腕に触れ、看護婦は言う。もちろんそれは図星なのだが、思わず「胃の調子が悪くて」と言い訳をした。

 一晩くらいなら入院してもいいと言われたが、断った。ちょっと立ちくらみを起こしたくらいで入院なんて大げさだ。治療費だってもったいないし仕事にも穴を空けたくはない。点滴を終えたラインハルトは病院の公衆電話から学校に電話をかけ、迷惑をかけたことを謝罪する。今日はとりあえず帰って休んで、体調をしっかり直してまた出勤するように言われても、ひたすら「すみません」と繰り返すことしかできなかった。

 点滴のおかげで少しは気分が良くなっていたが、休み休み家まで帰るとそれだけで疲れ果てた。寝室のドアを開けることすらおっくうで、ほとんどルーカスの専有物と化しているソファに倒れ込む。

 ルーカスがいつか言ったとおり、ラインハルトが寝転べばソファからは足先が大きくはみ出る。こんなでかい男が、あんな子どものことでうじうじ思い悩んでいるのだと思うとなんだか馬鹿らしい気持ちにもなってくる。そもそも普通ではない自分がよその子どもの面倒をみようなどと考えたのが間違いだったのだ。

 病院でもしばらく眠っていたのに、それだけでは疲労がとれていなかったようだ。ソファに横たわっているうちに、ラインハルトはいつの間にかうとうと居眠りをしていた。昼寝など久しぶりだ。

 やがて、物音で目を覚ます。鍵の音、ドアの開く音。オスカルを見たあの日と同じように、先に部屋にいるのはラインハルトで、そこにルーカスが帰ってきて――。

「……おい、何だよそれ」

 顔を上げたラインハルトは思わず驚きの声を上げる。

 ここ最近の無愛想を通り越して蒼白の表情を浮かべて、ルーカスがドアノブを握っている。その美しい金色の髪は、大部分が黒く染まっていた。