ルーカスの姿は異様としか言いようがなかった。頭のてっぺんから黒インクをかぶったような――いや、「ような」ではない。周囲に漂う匂いからして、実際にルーカスの髪を染めているのがインクであることは確実だ。彼は黒いインクをひと瓶丸ごとひっくり返して、頭の上からかぶって帰ってきたのだ。
美しい金髪はてっぺんの方は真っ黒に、下にいくにつれ金と黒がまだらに混ざった奇妙な色合いになる。髪だけではない、垂れてきたインクは少年の顔にいくつもの黒い筋を作っているどころかシャツの首元をひどく汚していた。浴びてから時間が経っているのか、すでにインクはあらかた乾いている。
ここ最近のぎくしゃくした雰囲気も、ひどい体調の悪さも、何もかも忘れてラインハルトはルーカスに駆け寄った。青い目が泳ぎ気まずく逸らされるのは、ラインハルトの追及から逃れようとするからだろうか。
「……何でもないよ、放っておいて」
ようやくルーカスが絞り出したのは、それだけだった。視線は下を向いたまま、ラインハルトの脇をすり抜けて彼の定位置であるソファに向かおうとする。だが、もちろんそんな言葉に簡単にうなずくわけにはいかない。ラインハルトはルーカスの後見人でもなんでもないが、一応は後見人に依頼されて彼を預かっている身ではある。こんな状態で帰ってきたまだ十五歳の少年を放っておくことが許されるだろうか。
「そんな格好して何もないなんて、どこの馬鹿が信じるって言うんだ」
これまでそんな素振りを一度だって見せたことはないが、もしかしたら学校でトラブルに巻き込まれているのだろうか。例えば両親を失ったことで居心地の悪い思いをしているとか、血縁関係もない若い男の家で暮らしていることで同級生にからかわれているとか。ルーカスがうつむいて黙ったままでいるので、ラインハルトは思わず声を荒げる。
「言え、誰にやられたんだ? 同級生か?」
自分の大声に触発されるように、怒りがふつふつと湧き上がるのを感じた。ルーカスを――あの美しい髪を、顔を、しなやかな首筋を誰かがひどく汚した。それはラインハルトにとっては大事にしまってあった宝物を汚されたような、過去の自分自身を汚されたような、耐えがたいことだった。
ルーカスは黙ったまま顔を拭おうともしない。その態度が余計に気に障り、ラインハルトは一歩踏み出すとルーカスの腕をつかみ、力任せに引っ張った。華奢なイメージを持っていたが、その腕は思ったよりもしっかりとした太さを持っていて、その体は思ったよりも強い力で抗ってくる。
「来い!」
重石のように動かない、黙ったままの少年に苛立ちがこらえきれない。ラインハルトがさらに腕に力を込めると、さすがに大人と子どもの体格差には叶わず、ルーカスは足を踏ん張ったままでずるずると数十センチメートル床の上を引きずられた。
とにかくこの汚れた髪を、体をきれいにしなければ。ただそれだけの思いでラインハルトは嫌がるルーカスをバスルームへ引きずろうとする。もしかしたら昼間倒れた影響もあるのか混乱と怒りのような感情で我を忘れ、その一方で頭の芯の方にはどこか正常な思考も残っている。
こんな光景は、どこかで見たことがある。
もうずいぶんと昔のことだ。ラインハルトとオスカルが部屋で抱き合っているのを目撃した父親にひどく叱られた夜。十四歳の、クリスマスの少し前だった。父に殴られそのまま引きずって教会に連れて行かれそうになった。日は暮れていたとはいえ公衆の面前で地面を引きずられ、いくら嫌だと言っても聞いてもらえなかった。
あのときの父親はラインハルトの行為を見て「息子は罪で汚れた」と思いそれを許すことができなかった。今のラインハルトはルーカスの美しい――憧れと自己投影の対象だった姿が墨をかぶり汚れたことを許せない。ひどく憎んでいる父親と似たような行為を、同じような場面になれば自分だって選んでしまう。そのことはなおさらに腹立たしく、一方でひどく虚しくも感じられた。
ラインハルトの暴力的な行動に抗いながらも積極的な反撃は見せなかったルーカスだが、自分がバスルームに引きずり込まれそうになっていることに気づくと突然暴れはじめた。
「離せ」
「痛っ、何するんだよ」
手の甲に容赦なく爪を立てられ、反射的にラインハルトの力が緩む。その隙をついてルーカスは腕を振りほどき逃げようとするが、そう簡単に思いどおりにはいかない。ラインハルトは今度は背後からルーカスのシャツの襟首をつかみ力任せに引いた。
「嫌だ、離してってば!」
ルーカスは背中からキッチンの床に倒れ尻餅をついた。脚を引っかけたのか、ダイニングチェアが一脚倒れて大きな音を立てる。ラインハルトも引きずられてよろめくが、なんとか転倒せずに持ちこたえた。
とにかく我慢がならない。この髪が、この体が汚されたことが許せない。一瞬でも早くこの美しい髪を汚すものを洗い流さなければ。激しい衝動に突き動かされるラインハルトには、ルーカスがなぜこんなにも抵抗しようとするのかは理解できない。誰にやられたのか知らないがひどい姿で、ルーカスはこのまま外を歩いて帰ってきたのだ。人目にさらされ傷つき動転しているのかもしれないが、それにしたってなぜ。
「暴れるなルーカス。まずはさっさとその髪と顔を洗え。誰にやられたのか知らないが、自分がひどい姿をしてるってわかっているのか?」
ぐい、ともう一度力を込めてその襟首を引き、ラインハルトはルーカスを立ち上がらせようとした。ルーカスはもう暴れない。代わりに体からは力が抜け、足が萎えてしまったかのようにいくら強い力で引いてもその場にへたりこんだままで動こうとしない。
「……じゃない」
小さな声が聞こえたが、ラインハルトの耳にまで言葉は届かない。
おおかた悪ガキのいたずらだろうが、やられた当人はよっぽど傷ついているのだろう。茫然自失したルーカスの態度にラインハルトは感情にまかせて実力行使に出たことを責められたような気分になった。
「何だ? 聞こえない。なんでこんなことになったのか、話なら後で聞くからとにかくまずはバスルームで……」
少しだけ言葉をやわらげ、今度はあまり強くない力でルーカスの腕を引く。すると今度はさっきよりも大きくはっきりした声で、ルーカスが言った。
「人にやられたんじゃない。自分でやったんだ」