Chapter 2|第30話

「……自分で、だと?」

 耳にした言葉がとても信じられず、ラインハルトは思わず聞き返した。

 ルーカスは誰かにやられたのではなく、自分で黒いインクをかぶりそのままの姿で帰ってきたと言っている。そして、このひどい姿は自ら望んだものだからバスルームで洗い流すことを拒んでいるというのだ。

「自分で、だよ」

 ルーカスは床にしゃがみ込んだままでもう一度そう言った。ラインハルトの方に背中を向けているので表情はわからない。だがその声は冷静そのもので、だからこそラインハルトはますます混乱した。

「いったいどうしてそんな馬鹿げたことを……自分がどんな姿をしているか鏡は見たのか? 今すぐ洗い流せ」

 ただひたすら「洗い流せ」と繰り返すだけの自分を馬鹿みたいだと思うが、それ以外の言葉が浮かんでこない。ラインハルトは有無を言わさずとにかくルーカスに言うことを聞かせようと少年の腕を取り再び立たせようとした。すると突然ルーカスが顔を上げた。

「あんたの言うことは聞けない。何が違うっていうんだ」

 顔色は悪いがその瞳や表情はしっかりしていて、ラインハルトを見据えてくる視線には強い抗議の色がにじんでいた。

「ルーカス?」

 はっきりと「言うことを聞けない」と断言されてラインハルトはうろたえた。その狼狽が伝わったのだろう。ルーカスは体勢を起こし立ち上がると、正面からラインハルトの顔を見上げてきた。そして少しだけ意地悪そうに口元を歪めて言った。

「ラインハルト、あんた本当の自分が嫌いなんだろう? 僕が気づいていないなんて、まさか思ってないよね」

 鈍器で殴られたような衝撃を感じた。ルーカスはいったい何の話をしているのだろう――本当はその意味することをわかっているが理解したくない。だから今度はラインハルトが目を逸らし下を向く番だった。

ルーカスはラインハルトの反応に気を良くしたようだった。顔を墨で汚したままうっすらと笑みすら浮かべて続ける。

「強迫的に、何度も何度も髪の毛を不自然な方法で金色に染めてさ。それ、本当は栗色なんだって知ってるよ。毎朝長い時間バスルームにこもって、まともに食事もしない生活続けて、でもそれもあんたの自由だって言うんだろ」

 ――約束をした。ここにいたいのならルールを守れと。ラインハルトの独自の生活習慣に口を出すことは許さないと。朝ラインハルトが身支度を終えるまでは決してバスルームを覗くな、どんな食生活を送ろうと口を出すな。そしてルーカスはその約束を律儀すぎるほど従順に守っているはずだった。

 だが今、ルーカスは意地の悪い表情を浮かべて、ラインハルトの奇妙な習慣を糾弾しようとしている。

「……黙れ、それとこれとは」

 喉が詰まるような感覚。うまく言葉が出てこないが、何とか絞り出した。止めないと、この生意気な子どもはますますひどいことを口にするだろう。

 いや、黙らせようと試みたところで何の意味もない。ルーカスの目の中では青い炎が燃えているようだった。ラインハルトの言葉の、行為の、何が直接の原因になったのかは知れない。確かなのは彼の中の何かが臨界点を超えたこと。普段の老成してあきらめきった態度の奥でくすぶっていた何かが今、一気に吐き出されようとしていることだった。

「何が違うんだよ。一緒だろ」

 少し低い位置にある喉仏。出会った頃はほとんど目立たなかったのに、今ではルーカスが何かものを言うたびにそこが動くのがわかる。この状況でそんなところに目がいってしまうのはある種の現実逃避だろうか。だが今のルーカスにはラインハルトを逃す気はなさそうだ。

「ラインハルト、あんたが自分の髪色を嫌って金色にしたがるのと何が違うんだ。僕は約束は守った。あんたがいくら変なルールを押し付けてきても我慢した。頑なに食事をしなくても、バスルームが脱色剤の匂いでいっぱいでも何も言わなかった。僕は約束通りあんたを放っておくように努力したのに、なんで僕のことは放っておいてくれないんだよ!」

 一気に吐き出された言葉は支離滅裂だ。ラインハルトが個人的なコンプレックスのために奇妙な生活習慣を守っていることは確かだ。だが、それとまだ十五歳の少年が頭から黒いインクをかぶるような真似が同じであるわけではない。

「それとこれとは違う。おまえはまだ子どもだし、俺とは違って」

 そう、ルーカスは自分とは違う。その髪も、その肌も、その瞳も。多少成長により失われつつはあるがまだまだ細くしなやかな手足も、何もかもが美しく完璧で、ラインハルトにとっては憧れてやまないものだ。大人の責任などただの言い訳で、ただ自分にとって美しいものを汚されたくない――その気持ちを抑えることはもはや難しい。

「なぜそんな、きれいな髪を……」

 思わず口から本音がこぼれた。

 ルーカスはその言葉にひどく驚いたように小さく息を飲んで目を見開いた。しかしそれも一瞬だけで、彼の子どもっぽさを残す顔には年齢に似合わない自虐的な笑みが再び浮かんだ。

「あんたさ、この姿を美しいと思うの?」

 この上なく直接的な問いかけにラインハルトは小さくうなずいた。美しいと思う。だから憧れて嫉妬して、疎ましく思っても彼を手元に置きたいと思ったのだ。

「そんなのあんたの価値観だ。僕には関係ない。あんたがきれいだと思うから僕が髪の色を変えることも許さないなんて、馬鹿げてるよ」

 ラインハルトの正直な反応に、ルーカスは吐き捨てた。

「違う。誰だってきっと」

 ラインハルトはなんとか抗弁しようとする。だって、幼い頃の自分はルーカスのような美しい姿をしていた自分は誰からも褒められて、親切にされて、愛された。だからこそその姿を失ったラインハルトは今こんなにも苦しんでいるわけで、それを頑なに否定しようとするルーカスの態度は理解できない。

 激昂した少年の異様な雰囲気に押されながらも、ラインハルトは何とか言葉を探そうとした。ルーカスがなぜ突然彼の外見に強い違和感と怒りを抱いたのかはわからないが、きっとそれも子どもらしい理由で――例えば好きな女の子を黒髪の男に持って行かれたとかその程度の――でも、それがラインハルトの抱えるコンプレックスの原因と一体何が違うというのだろう。だんだん自分の正しさに自信がなくなってくる。

 とうとう言葉を失ったラインハルトの目の前で、ルーカスは小さくひとつため息をついた。少しの沈黙。それからルーカスは悲壮な表情を浮かべて口を開いた。

「――僕のこの姿が、死に神の祝福を受けたものだとしても? それでも僕はこの髪や目に、この姿に感謝しないといけないの?」

「……死に神?」

 死に神の祝福を受けた、という言葉の意味がわからない。それが彼が突然金色の髪を嫌いはじめた理由だというのだろうか。ラインハルトの戸惑ったような反応に、ルーカスはうなずいて見せる。そして少し低い声で告げた。

生命の泉教会レーベンスボルン、僕がハウスドルフ家に引き取られる前にいたのはそこだ。そして僕の今の名前――ルーカスという名をつけたのは、親衛隊長官のハインリヒ・ヒムラーだ」

 ラインハルトは今度こそ本当に言葉を失った。