Chapter 2|第31話

 生命の泉協会レーベンスボルンの名は知っている。

 オーストリアがドイツに併合されたとき、ラインハルトは五歳だった。父やその仲間たちは一貫してナチやアドルフ・ヒトラー政権に対して批判的な態度を持ってはいたものの、疑心暗鬼の時代におおっぴらな反ナチ活動を行うことはなかった。父の通う教会の人々がナチによって迫害される人々の支援活動を行っていたことすらラインハルトは戦後になるまで知らなかった。

 同じように、戦場で何が起こっていたのか、その出自や思想を理由に捕らえられ街から消えて行った人たちの身に何が起きていたのか――凄惨な事実がつまびらかになったのも戦争が終わってからだった。

 身近な家族を幸い戦争で失うことなく、疎開先で空襲も経験しなかったラインハルトは政治の話題には関心が薄く、たくさんのユダヤ人やロマや共産主義者が強制収容所で命を奪われたと聞いてもあまり実感は湧かなかった。ただ、ナチの迫害対象に同性愛者が含まれていたと知ったときには、いくら人々に疎まれ教会からも追い出されることになろうと命までは取られないのだから、自分はましな時代に生きているのかもしれないと思った。

 レーベンスボルンと呼ばれる施設については、戦中から特段存在が秘匿されていたわけではない。だが、ラインハルトのような子どもまでがその存在を知るほどの知名度はなかったのだろう。その名が有名になったのは戦後にナチスドイツの行った過激な民族主義政策の一部――彼らの言うところの劣等民族を抹殺するための強制収容所と同じ文脈に位置する施設として、戦勝国による報道や戦争裁判の中で言及されることが増えてからのことだ。

 元々は、当時のドイツの低い出生率への対策として、困窮する母子を支援するために設置されたレーベンスボルンは、やがて純粋なアーリア人種を産み育てることを推し進める施設としての色を濃くしていった。

 入所が可能な女性は由緒正しいアーリア人種の女性に限られ、原則として子どもの父親となるのは親衛隊将校だった。当時の親衛隊将校には国家繁栄のため多くの子を持つことが奨励されたから、レーベンスボルンの産院にやってくる女性と将校たちの間には必ずしも婚姻関係があったわけではない。ともかく人種的エリート同士の間に生まれた、同じく人種的エリートである子どもたちは、生後間もなく母親から引き離され専用の養育施設で教育を受けたのだという。そして、ナチの人種政策が否定された戦後には、レーベンスボルンで生を受けた子どもたちの処遇について問題になった。

 ラインハルトは、改めてルーカスの顔を見た。インクで黒く汚れてはいるが、金糸のような髪に白い肌と賢さを感じさせる青い瞳。まだ幼くはあるがバランスの取れた体躯。戦時中であればヒトラーユーゲントのポスターに載っていたっておかしくはないくらい、完璧な外見。見れば見るほど、彼が人種的エリートを増殖させるための特別な機関で生まれ育ったとしても不思議はないように思えてくる。

 だが、子どもの感情的な言葉をそう簡単に信じて良いものなのだろうか。しかもルーカスはほんの最近まで自身の出生についてはほとんど気にかけていないようだった。十分幸せな育ち方をしていたからと言って、そう、実家の片付けに出かけたあの日までは――。

「あの日、何かあったのか?」

 ラインハルトは訊ねた。もはや一刻も早く目の前の少年の髪や顔を洗い清めなければいけないという脅迫的な感情は止んでいた。ぎゅっと噛んだ唇はほとんど紫色になっているが、ルーカスはそれでも気丈にも自分の脚で立ち、泣き出すことも叫び出すこともなくラインハルトに向かってうなずいて見せた。

「……片付けをしていた叔父さんたちが、父さんと母さんのベッドの下に厳重に隠されていた包みを見つけたんだって。その中には僕のレーベンスボルンへの入所日や成長記録が書かれた記録簿と……僕の名と、名付け親としてヒムラーの名前入りの銀杯が入っていたんだって」

 レーベンスボルンはその目的が親衛隊員の子どもを増やすことにあったことからもわかるように、ナチ親衛隊の傘下の施設だった。だから親衛隊長官のハインリヒ・ヒムラーがそこを訪れたり、例えば偶然その日に洗礼を受けることになっていた子どもに名前をつけるようなことがあっても不思議ではない。もちろん今となっては彼にもらった名前など迷惑この上ないものなのだろうが。

「でも、おまえは終戦時には既にハウスドルフ家にいたんじゃ?」

 ラインハルトの浅い知識では、レーベンスボルンの孤児たちの問題が明らかになったのは戦後の話だ。ルーカスがハウスドルフ家に引き取られた時期とは異なっている。目の前の悲壮な少年の姿を目の当たりにして、ラインハルトは何とかして今話されている内容が思い違いであるという理由を探そうとしていた。

「僕も今回のことがあるまでレーベンスボルンなんて、名前くらいしか知らなかった。自分とはなんの関係もないものだと思っていた。だから……何かの冗談かもしれないと思って図書館で調べたよ」

 ルーカスはそこで小さく息を吐く。自分でも信じたくないような出生についての話をラインハルトに告白することに、彼がひどく緊張しているのが伝わってくる。

「戦況が悪化するにつれてレーベンスボルンの維持管理が難しくなって、終戦前から多くの施設は閉鎖されはじめていたんだ。僕が育った施設もその一つで……」

 政治の都合で孤児となってしまう子どもを引き取ることに決めた、というのはあの信心深く善意の塊のような男の姿を思い起こせば、不思議ではないような気がする。

 ハウスドルフ夫妻は、幼いルーカスが傷つかないよう彼の出生については伏せていた。一方でレーベンスボルンから渡されたのであろう記念の品々を捨てずに取っていたのは、もしかしたらいつの日か、ルーカスが十分に大人になった頃に事実を話す必要に迫られることを想像していたのかもしれない。なんにせよ彼らだってまさか自分たちが不慮の事故で同時に命を失い、こんな残酷なかたちでルーカスが自身の過去を知ることになるとは想像していなかっただろう。

「だからって、こんな」

 ラインハルトはおそるおそる手を伸ばし、ルーカスの髪に触れた。乾いたインクのせいでひどく硬い感触だった。

「学校で、ばれた」

 ルーカスの声はひどく震えはじめ、ラインハルトも髪を撫でる手を止める。

「どういうことだ?」

「親戚の誰かが僕のことを近所の人に話したみたい。レーベンスボルンの子どもをどうするか困ってる、ユダヤ人殺しの悪人ヒムラーに名前をもらった証拠まであるから間違いないって。その話を聞かされた人が偶然クラスメートの親と知り合いで……」

 センセーショナルな噂は簡単に少年たちのところまでたどり着き、とうとう今日、ルーカスはクラスメートに「死に神ヒムラーの名づけ子」とからかわれ、衝動的に黒インクを頭からかぶったというのだ。