Chapter 2|第32話

 ラインハルトは、ルーカスの告白に激しくうろたえていた。確かに不遇な少年だとは思っていた。でも、今になってこんなにも重い過去が彼にのしかかるとは思ってもみなかった。それでもまだ正気を保つことができたのは、目の前の少年があまりに深く傷つき疲れ果てているからだ。

 数歩足を進めると、ラインハルトは倒れたダイニングチェアを起こす。ルーカスの手を引きそこに座らせると、自分もテーブルに向かい合わせで腰掛けた。衝動的にインクをかぶるほど追い詰められたルーカスには落ち着くための時間が必要だ。無理やりバスルームでシャワーを浴びせたところで何の解決にもならないことにラインハルトはようやく気づいた。

 ルーカスは抗わなかった。うながされるままに椅子に座り、しかしうつむいたままラインハルトの顔を直視しようとはしない。覚悟を決めたような大胆な告白とひどく怯えうろたえた態度を繰り返すのは、それだけ彼が追い詰められているからだ。

 テーブルの上に放り出した両の手は小刻みに震えている。その手に一回り大きな自分の手を重ねることに迷いはなかった。ひどく震えている手は握りしめてさえもらえれば、ひどく震えている体は抱きしめてもらいさえすれば落ち着くのだと知っている。最初は重ねるだけ。それから次第に力を込めてラインハルトはルーカスの手を握る。激しい動揺を伝えるかのように、その手はひどく冷たく汗ばんでいた。

「大丈夫だ、ルーカス」と、ラインハルトは声をかける。

 一体自分は何について「大丈夫」と告げているのだろう、そんな疑問は言葉からいくらか遅れて湧き上がる。でも別にそんなことどうでもいい。ただ今はルーカスの手を握り、彼を安心させる言葉を吐くことだけに意味がある。

 ルーカスとの関係で、いつだってラインハルトは揺れ動いてきた。哀れな子どもを庇護する一人前の大人であろうとする自分と、失ってしまった美しい少年としての容貌を持つ彼に子どもじみた嫉妬心をたぎらせる幼稚な自分。ときに前者に振れ、ときに後者に振れ、不安定な感情を理不尽な要求や態度としてルーカスにぶつけることすらあった。でも、今は。今この瞬間のラインハルトは――。

「大丈夫だ」

 重ねてそう言ってぎゅっと手に力を込めた。

「ここはおまえと俺だけの秘密基地だから、誰も追ってこない。おまえを邪魔者扱いするハウスドルフ家の親類の奴らも、おまえの出生をあざ笑ったりさげすんだりするような意地の悪いクラスメートも、ここには入ってくることができない。ここは大丈夫なんだ」

 その言葉にうつむいたままのルーカスが小さくうなずくのがわかった。力なく投げ出されていた手指にも心なしか、ほんの少し温度が戻ったような気がする。

 だから怯えないでいい。だからその姿を恥じる必要などどこにもない。そのことをどう伝えるべきか一瞬逡巡し、続いて口を飛び出したのは自分でも意外な言葉だった。

「俺は、ずっとルーカス、おまえのことが羨ましかったんだ。最初に姿を見た瞬間からおまえは髪も姿も何もかもが美しくて。子どもに嫉妬なんて馬鹿みたいだと思いながらもひどく嫉妬した。いや、正直今も……」

 これまで一年近く、必死になってルーカスから隠そうとしてきた感情。それだけではない、ラインハルトは自身の外見への深刻なコンプレックスについてはこれまで一度だって、誰にも話したことはない。あまりに幼くて醜くてくだらない感情だからこの世の誰にも悟られてはいけないのだと必死に隠してきた自らの恥部について、ラインハルトは今迷いなく語っているのだった。

 ルーカスは顔を上げることすらしない。確かにそうだ、彼の金の髪を、薔薇色の頬を、細くしなやかな手足を羨むのはただのラインハルトのノスタルジーゆえで、そんな気持ちをいくら伝えたところでルーカスが救われることはないのかもしれない。

「羨ましいって、何が?」と、か細い声でルーカスが言ったのは長い沈黙の後だった。続けて絞り出す言葉は少しずつはっきりと大きくなり、その声にやがて涙が混ざりはじめる。

「まだ言ってないことが……僕の本当の両親のこと。親衛隊の将校でもない、ドイツ人の女性でもない。僕はただ彼らの理想どおりの外見をしているからというそれだけで、ドイツ占領地域から連れ去られた赤ん坊の一人だったんだ」

 ラインハルトの手のひらの中で、ルーカスの手がぎゅっと握りしめられる。

 優秀なアーリア人を生み育て増やすことをその責務としたレーベンスボルン。そこで暮らすのは必ずしもドイツ人同士の間に授かった子どもばかりではなかった。戦後ナチの戦争犯罪が暴かれる中では規模が小さいためあまり注目されることはなかったが、ナチ親衛隊が占領地から、彼らが「正当なアーリア人」だと認めた子どもばかりを連れ去りレーベンスボルンで養育させていたことも明らかになった。

 金髪、青い目、頭蓋や耳の大きさなど基準はいくつもある。それらの基準をすべて満たした子どもは、親の国籍が例えばポーランドやリトアニアであろうと、アーリア人種としての正しい教育を施すためにレーベンスボルンに連れてこられたのだ。

「……どこで? 本当の親は?」

 ラインハルトは思わず口に出した質問が残酷なものであることに気づきあわてて口をつぐむが、ルーカスが気を悪くした様子はなかった。手の甲にぽつぽつと温かなものが落ちてくる。すぐにラインハルトの手はルーカスがこぼす涙で濡れた。

「残っていた帳面には、リトアニアのどこかで捕らえられたということだけ。きっと……」

 ドイツ侵攻の際に多くの現地住民が虐殺されたリトアニアで、ルーカスの両親の運命がどのようなものであったかは想像するまでもない。そのとき何が両親とルーカスの運命を分けたのか。なぜ両親は死に、ルーカスだけが生き延びたのか。

 ルーカスが顔を上げてラインハルトを見る。泣きながら笑う。彼自身を、そして彼自身が背負った運命をあざ笑うかのように、口の端を歪めて。

「とんでもない呪いだよ。ただ僕は、彼らにとって理想的な美しさを持っていた。そして〈再教育〉することでアーリア人になることができる可能性を信じられる程度に幼い赤ん坊だった」

 出会った日、親族からも疎まれ、しばらく預かると言い出した人間の家でも結局は持て余されていることに気づいて、彼はただあきらめたような冷たい目つきでラインハルトを見つめてきた。あのときと同じ青い目。ただ一つ異なるのはそこから流れる涙。

「ねえラインハルト。この外見のせいで僕は故郷からも実の両親からも引き離された。本当の名前を失い、新しい名前を死に神から与えられて、呪われたまま生き延びた。それでもあんたは僕のこの髪をきれいだって言うの?」

 青い瞳からとめどなく流れ出す涙がこびりついた黒いインクを溶かし、ルーカスの頰をただ汚す。