Chapter 2|第33話

 考えるよりも前に、言葉が口からこぼれていた。

「……きれいだと、思う」

 それはルーカスの背負うものを一切考慮しない自分勝手な言葉だ。ただでさえひどく傷ついているルーカスに追い打ちをかけさえするのかもしれない、そんな気持ちが遅れて浮かんでくるが、今のラインハルトにはただ、思うがままを語ることしかできない。

 髪を、顔を汚したままのルーカスは、まるで不思議なものを見るかのようにわずかに目を細めてラインハルトを見つめたままでいた。ラインハルトはそれを、自分がこのまま話し続けても良いという意味に受け取った。

「信じないかもしれないけど」と、ひとつ息を吸ってからラインハルトは切り出した。

 この場で話すべきことなのかはわからない。ただ、今を逃せばルーカスに自分自身のことを伝える機会は二度と訪れないような気がする。ルーカスは彼自身が恥じている過去をラインハルトに告白した。だから自分もルーカスに隠し事などできない。そんな衝動だけがラインハルトを突き動かしていた。

「俺も子どもの頃はおまえみたいな髪の色で、小枝みたいに細くて、教会に行けば天使みたいだってお世辞を言われたりもしたんだ。振り返ればずいぶん嫌な奴だったと思うよ。自分の外見は美しくて、誰からも愛されて当然なんだと勘違いしていたから」

 そう、当時のラインハルトは外見を褒められることに慣れきっていた。傲慢な感情であることは知りながらも、その髪や姿を褒められるだけで自分が人より秀でているのだと思い込み、その美しさゆえに物事は何だって思うがままになるのだと信じてすらいた。普通ならそう簡単に受け入れられるはずがない同性相手の初恋すらいとも簡単に叶ったのだから、人生経験の浅い子どもが思い上がるには十分だった。

 だが、そんな傲慢を咎められたのか、それとも同性愛という罪に対する罰なのか、神はある日を境にラインハルトに与えたものを奪いはじめた。

「でも、ちょうどおまえくらいの年頃のときに、遅れた成長期がやってきたんだ。髪の色は暗くなり、身体中の軋むような痛みに苦しみながら、目を覚ませば前日よりも背が伸びて体がたくましくなっている。毎日朝がくるのが怖かったよ。見た目はどんどん変わって初恋も失った。普通なら日々が経つにつれて成長した自分を受け入れることができるんだろうが――俺にはそれがどうしてもできない。髪の色もこの体も、何もかもが許せない」

 ルーカスの涙はいつの間にか止まっていた。黙ったままラインハルトの突然の告白に耳を傾けている。だが、その表情から一切の驚きは感じられず、ラインハルトはきっとルーカスには気づかれていたのだという確信を深める。

 ラインハルトは思い出す。あの頃、毎晩寝る前に「これ以上僕の体を変えないで」と祈り、朝起きれば願いを叶えてくれなかった神に対して呪詛の言葉を吐いた。あの悪夢の日々は遠い過去のように感じるのに、今も変わらず呪いはラインハルトの心と体を蝕み続けている。

「だから、おまえを預かれと言われたときは嫌だった。だってルーカス、おまえの髪も体も何もかも、俺がずっと昔に神様に泣きながら奪わないでと祈って、それでも失ってしまったものだから。おまえの姿を見流のは正直傷をえぐられるようだったよ。……でもその一方で、俺にとって憧れてやまない美しい人間がそばにいることは喜びだった」

 重い過去に押しつぶされそうになりながら必死で戦っている少年からすれば馬鹿みたいな苦悩だということはわかっている。こんな過去、こんな劣等感、ルーカスの抱えているものと比べれば羽毛のように軽い。それでもこの程度の過去にすらラインハルトは傷つき、長い間髪の色を変え自らの体を痛めつけるような脅迫的な行為をやめられずにいたのだ。だから――。

「無意味なことだとわかっていながら、過去の自分、理想の自分に少しでも近くあろうとすることをやめられない。髪を脱色するのも食事を制限するのもそのためだ。くだらないとわかっていてもどうしても自分を止められない。だから俺には――今のおまえがその姿に嫌悪感を抱く気持ちが、少しは想像できると思う」

 震えていたはずのルーカスの手は、いつの間にかぎゅっと強くラインハルトの手を握り返してくる。それはルーカスがラインハルトの言葉に、今どうしても伝えたい内容に、しっかり向かい合ってくれている証でもあった。だから、ラインハルトは言った。

「でも俺は、おまえがその姿のおかげで命を救われて今ここにいるのだとすれば、そのことに感謝する。それに金色の髪じゃなくても、墨をかぶって髪も顔も汚れていても、おまえは――美しいよ」

「ラインハルト……」

 ルーカスが驚いたように小さな声で名前を呼んでくる。

 目を見れば、言葉に嘘がないことはわかってもらえるはずだ。

 黒いインクだけではない。ラインハルトに引きずられ床に倒れこんだせいで、ルーカスの髪はめちゃくちゃに乱れている。涙を流したせいで顔の黒い汚れはあちこちに広がってしまった。でも、それでもラインハルトは断言することができる。ルーカスは美しい少年だと。そして、そう感じるのは何も彼の外見のみによるのではないのだと。

 なぜだろう。ラインハルトが惹かれたのは、嫉妬したのは、彼の持つ髪の色や、少年らしい美しさ――ラインハルト自身がずいぶん前に失い二度と取り戻すことができないものであるはずだった。でも今は、彼の黒く汚れた髪や顔ですらこの世の何より美しく思える。

 ずっと気づいていたこと。気づいていないふりをしていたことにようやく目を向け言葉にする勇気を得たラインハルトは、ぎゅっとルーカスの手を握り返した。

「俺は一方的にめちゃくちゃなルールを押し付けたのにそれを律儀に守り続けてくれたのはルーカス、おまえが俺のコンプレックスに気づいていたからだ。その上で、俺の傷に触れないよう文句のひとつも言わずに従ってくれていたんだろう」

 蒼白だったルーカスの頰に、少しだけ紅がさした。硬直していた表情にいつもの少年らしさが戻りルーカスは小さく左右に首を振った。

「違うよ。そんなんじゃ……ただ僕は、追い出されたら行く場所がないから」

 彼は否定するが、それがただの照れ隠しであることをラインハルトは知っている。いや、本当はずっと前から気づいていて、そのくせ背伸びするルーカスの大人びた優しさに甘えてきたのだ。

「おまえがきれいなのは、姿だけじゃないよ。優しさや、強くあろうとする覚悟、何もかも俺には真似できない。だからそんな風におまえを育てたハウスドルフ夫妻のことを尊敬するし、ここにおまえがきてくれてよかったと今は思ってる。絶対にここから追い出したりなんかしない」

 その言葉に驚いたように目を丸くして、それからルーカスは笑った。さっきまでその顔にあった自嘲や皮肉でいっぱいの大人びた笑いではない、十五歳の少年らしい、わずかな恥じらいを含んだ幸せそうな笑顔だった。

「うん」と、ルーカスは今度はラインハルトの言葉を否定することなく、力強く首を縦に振った。

 もう一度強く握り合った手をどちらともなく離し、やがてルーカスは立ち上がる。

「髪、洗ってくる」

 あれだけ怒鳴って、引きずっても拒んだ浴室に軽い足取りで向かうルーカスの背中にラインハルトは「ああ」と答える。

「これ、普通の石鹸で落ちるのかな」

 振り返り、黒く汚れた髪のひとふさをつまみ上げて笑って見せるその顔は、普段のルーカスに戻っていた。