Chapter 2|第34話

「さようなら、用務員さん」

「さよなら、また明日ね」

 耳をくすぐる賑やかな高い声、そのひとつひとつにラインハルトは「さようなら」と返す。

 すっかり真夏のものになった日差しは夕方になり少しだけやわらいで、ようやく外の作業をする気になって校舎外へ出た。勤務先の小学校は少し前に夏休みに入ったが、休みになるのは子どもだけで、教職員は普段より多少公休の取得者が多いものの、学期中にはできない研修や作業のため変わらず出勤をしている。特に用務員にとっては普段できないまとまった校内設備の修繕など、この時期だからこそ取り掛かることができることが多く、ラインハルトは普段より忙しいくらいだ。

 小学校の敷地自体は夏季休暇中にも解放されているので、特に校庭は、毎日遊びに来る子どもたちの姿で賑わっている。こんなに暑い中、仕事でもないのに何を好き好んで外なんかに、と思ってしまうのは大人の一方的な感覚なのだろう。少年少女たちは日差しなどものともせず駆け回ったり、サッカー遊びに興じたりしていたが、そろそろ帰宅の時間なのか、ひとグループふたグループと校門を出て行く。

 ふいにラインハルトの目の前に小さな麦わら帽子が転がってくる。手を伸ばし拾い上げると、ちょうど数メートル先を歩いている少女の髪が風になびいていた。友達とのおしゃべりに夢中で、帽子が飛ばされたのに気づいていないようだ。

「ねえ、君。帽子を落としたよ」

 声をかけると、少女は慌てて両手で頭を探りハッとしたように振り返った。背丈からすれば三年生くらいだろうか。友達に待っていてくれるように伝えて、ラインハルトの方へ駆けてくる。帽子を手渡すと彼女は少し不思議そうにラインハルトの顔をじっと見て、言った。

「ありがとう。……ねえ、用務員さん、前と同じ人?」

「え? 俺は前からいるけど」

 突然の質問に一瞬戸惑うが、彼女の次の言葉で疑問はとけた。

「だって、髪の毛が違うから。色が混ざっていて、変わってるね」

 彼女はそう言ってラインハルトの顔のあたりを指で指し示した。毛先の方はまだ脱色したままの明るい色を保っているが、根元を中心に栗色の面積がずいぶん大きくなってきた。同じ頭に二種類の違う髪色が混ざっていることに、幼い彼女は戸惑いながらも興味を惹かれたのかもしれない。

 ラインハルトは指先で自分の髪に軽く触れてから、返事を待つように自分の方を眺めている彼女に向けて小さく笑った。

「うん、確かに変わってるかもしれないな。……でも、上の方が本当の色なんだよ。そのうち全体が栗色になる」

「へえ。でも色が変わっちゃうなんて、すごいね」

 きらきらした瞳の少女はラインハルトの「途中で色が変わってしまう不思議な髪」に興味津々のようだったが、校門近くで待っている友人たちに名前を呼ばれるとそちらを振り返る。

 そろそろ行かなければきっと置いてけぼりにされてしまう。そんな顔をした彼女の小さな頭に、ラインハルトはしっかりと帽子を被らせてやった。

「俺の髪を褒めてくれてありがとう。日差しが強いから、もう帽子を落とすんじゃないよ」

「うん、さよなら。またね」

 走り去る少女の背中が見えなくなるまでぼんやりと眺め、それから作業の続きにかかることにした。

 ラインハルトは、髪を脱色することをやめた。あの日――ルーカスが自身の出生をからかわれ、黒いインクをかぶって帰ってきた数日後、買い置きの脱色剤をすべて捨てたのだ。

 なぜ、と聞かれればうまく説明はできない。ただあの日のルーカスとの会話で、ラインハルトは自分がそれまでの人生で大切にしてきたもの、もしくは縛られてきた価値観が絶対的なものではないことを知った。

 ラインハルトにとって憧れてやまない美しさの象徴である金色の髪が、ルーカスを生みの両親と引き離し死に神の祝福を与える元凶となった。だからルーカスはその光り輝く髪を呪いだと理解し、墨をかぶることで烙印を覆い隠そうとした。それはちょうど金色の髪を失ったことでこの世のすべての愛情から見放されたと思い込んだラインハルトが、栗色の髪を金色に変えることに執着したのと同じように。

 鏡合わせのような呪いにかかっているラインハルトとルーカス。ラインハルトがルーカスにありのままの姿でいる強さを求めるならば、その引き換えに何をすべきだろう。そこで自分自身もできる限り本来の姿を受け入れるよう努力すべきだという結論に達したのは当然のことだ。

「ただいま」

 ラインハルトが部屋の扉を開けると、テーブルに向かって教科書とノートを広げていたルーカスが顔をあげ「おかえり」と言う。しかし、いつも通りの笑顔は少し視線を下に落としたところで驚きの表情に変わる。

「すごい汗、シャツがびしょびしょじゃないか」

「外で作業したんだから仕方ないだろ。職場でシャワーを浴びたかったけど、着替えを忘れたんだ。すぐに着替えるよ」

 荷物を置き、寝室のクローゼットから着替えを取り出すとラインハルトはすぐにシャワールームに向かう。作業中は帽子と長袖で防備していたつもりだが、それでも暑さにやられたのか、まだ頭が少しぼうっとしている。服を脱ぐと、体に溜まった熱ごと冷まそうとしてしばらく水シャワーを頭から浴び続けた。石鹸を泡立てて顔を、体を、髪を洗い、ひと息ついたところでドア越しに漂ってくるいい匂いに気づく。

 続けて、ルーカスの声。

「今日はさ、煮込みを作ってみたんだ。肉屋のおばさんが、簡単に美味しくできるっていうレシピを教えてくれたんだ。肉も割引してくれたよ」

 その声を聞きながらラインハルトは自分自身の姿を洗面台の鏡に映してみる。

 鏡に映る男は栗色の髪で、血色が良く、数ヶ月前と比べると少し肉がついたように見える。とはいえその変化は浮き出ていたあばらが目立たなくなる程度のもので――つまり、これは正しいことなのだと頭では理解している。それでも正直、捨てきれない理想から日々程遠くなっていく自分の姿に喜びを感じられるほどには、まだラインハルトは達観できていない。

 この姿を他の誰でもない自分自身が認めて、受け入れることが呪いを解くための第一歩なのだと理解して、それでもやはり朝晩鏡を見るたび落ち込んでしまう。だが、ルーカスだって戦っている。彼はあの日以降一度だって弱音を吐かない。髪の色を変えたいなどとは口にしない。

 ルーカスはあの日以降、何度か顔に擦り傷を作って帰ってきた。彼の生育環境をからかった少年たちに対して抗議することを覚えたからだ。傷口を消毒してやっている最中、珍しいほど殊勝な態度で「ごめん」とつぶやく彼の髪を撫でてラインハルトは「好きなだけやれ」と言った。おまえをからかう奴らを殴ったことで呼び出されるなら、いくらでも保護者がわりに学校に行ってやる。そう笑うと、ルーカスはほっとしたように表情を緩めた。

 だからラインハルトもルーカスに負けないよう、彼に対して恥ずかしくないよう、一歩一歩進んでいくしかないのだ。ラインハルトの髪色が少しずつ変わっていくことにルーカスは何も言わない。言葉にせずともきっと、ラインハルトの決意は伝わっているのだと思う。

 足並みを揃えて少しずつ前に進んでいく。これがきっと、ひとりではなく二人でいることの意味。もう一度冷たい水で顔を洗い手早く衣類を身につけると、ラインハルトはバスルームを出る。テーブルにはもう、二人分の夕食が準備されていた。

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